子ども大会の法話を中心に5回書いたが、この法座の間にお二人の方と真宗カウンセリングについて話をする時間があった。
そして、そのどちらもとても興味深く、大いに刺激をいただいた。
一人の方は、カウンセリングにおいては先輩であり、いろいろと背中を押していただいている方。
子どもらを迎えに行く車の中で、以前このブログに書いたことをきっかけに話が進んだ。
その方は、最近「共感」ということを深く味わっておられるらしい。
意識的に寄り添っていくのではなく、自己を開いていくことで相手に伝わるもの…それによって、二人の間の境目が無くなって「共感」出来ている状態があると。
この感覚は、実はわたしにはまだよくわかっていない。
「自己一致」することで見えてくる自分自身と、意識化できなくても底辺のほうにある「私」の部分。
寄り添っていき「受容」することで、意識化できていなくても底辺のほうにあると感じられる「あなた」の部分。
「私」と「あなた」の二つの三角形が重なり合うとき、重なっている底辺のイメージ。
そこが「共感」なんだというのが、いままでのイメージ。
真宗カウンセリングにおいては、そこは「超個」であり、ともに「仏に願われている」という部分で「安心して共有できる」ところだと思っていた。
だとすると、この方の味わっているものとはちょっと違う。
今の自分自身を振り返ってみると、カウンセリングの三条件のうち一番難しいのが「自己一致」だと思っていたし、やっとそのあたりを知識的ではなく感覚的に押さえる事が出来てきた気がするし、「受容」に関しては「尊重」というところで最近深まってきてる気がする。
そう考えると、「共感」に関しては、頭のイメージで持っているだけで「体感的」なものがはっきりしない。
上に書いたように「超個」ということであれば、法座ですっと感じていることなので納まるのだが…
ということで、まだ私が体感できていない「共感」の境地があるというのは、とても刺激的だ。
ここは、知識的に追い求めるものでも、意識的に体験していくのでもなく、カウンセリングやワークを体験していく中で、「良い関係」が出来上がったときに「これだ!」と体験するものなんだろうな。
そういうものが「ある」と教えてもらっただけでも、すごく大事なことだと。
もうお一人とは、先日行ったワークに出席された方と話されたことから感じたことを、「ぜひ高橋さんに話したかった」と。
話の詳細は書かないが、ちょっと否定的な気持ちになることを言われ、最初は嫌な感じだったけど、そのことを通していろいろ考える事が出来た…ということ。
何をして「本当に聞いてもらえた」というかは、それぞれの方の経験や比較の中で話されることだけれど、こちらが「聞いてあげている」というのと相手が「聞いてもらえている」というのはなかなか一致しなかったりする。
しかし少なくとも、「聞いてもらえてるとは思わないけど、それを言ったらこの人に悪い」と、自分の気持ちを殺して隠してしまうよりも、「聞いてもらえてると思わなかった」と言ってもらえるほうが「一歩進んだ関係」になっていると思う。
そういう「否定的な感情」でも表に出していいんだということを学ばれた方が、そのことを口に出す。
口に出された方もそれを受け止め、そう言える「関係」を作れたことを意識してみる。
世間的なお付き合いだとすると、ちょっとややこしい関係に見えるかもしれないが、お互いにとって次のステップにつながる大事な出来事じゃないかなと。
私自身、その方とお話して、それぞれの方の変化を通じておおいに刺激をもらった。
私がワークをしたことで、こういう風にいろんなところで波紋が広がっていく。
責任も重大だけれど、やりがいはある。
そして、私自身、ますます勉強し経験していかなければ。
得をするのは私自身だから。
次は8月22・23日に金沢でワークショップがあります。
定員まであと数名…締切までは間がありますが、希望者はお早めに。