コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

仏の子ども大会 5

2009-08-05 23:31:44 | 真宗
4日目は午後にも閉会式としてご法話がある。

朝の法話・分級座談会も終え、帰り支度も済ませて、あとはそれぞれの思い出を持って帰るだけ…ところが、この最後の最後に、とても大事なお話がいただける。

子どもらそれぞれがわからんなりにも「わたしとはどういうものだろう」ということを内省し、深く見つめていった先に、「そんなわたしにかけられた願い」を聞かせてもらえる。

テーマとして書かれはしなかったが、「ほとけさまのプレゼント」でいいんじゃないだろうか。

プレゼントの包装には宛名が書いてある。
「○○ちゃんへ」と「なもあみだぶつ」。
ほとけさまのプレゼントも衆生それぞれに充てて、その一人一人をめがけて贈られる。
その中身は…

お仏壇のお荘厳を通じて、阿弥陀様の働きを教えてくださる。

お灯火をもち「ちえむりょう」
自分で自分を見ることは出来ない。
自分の姿を映す鏡の前に立っても、光に照らされないと何も移らない。
無智で自分を知れないわたしに向かって、光で照らして見せてくださる。
智恵のおはたらき。
これが限りない。
これが「なもあみだぶつ」のお働きのひとつ。
「光明無量」とも言うかな。

今度はお花を持って「じゅみょうむりょう」
命・時間に限りがあったら、迷いに迷い続けているこのわたしを救うためには条件が出来てしまう。
それでは願いがはたせない。
だから無量の命で持って「必ず救うぞ」と。
花びらが一枚散っても、まだまだ控えているさま。

実はわたしは、お仏壇のお供えとして「献灯・献花」するから、こちらから荘厳しているイメージがあった。
そういえば、お仏壇の花はほとけさまの方ではなくこちらを向いている。
「何故なのか?」というお話を聞いた事がある。
それが、この日のご法話ですごくよくわかった。
お光もお花も、ほとけさまのお働きを現している。

自分のしていることを見つめることすらできず、限りある命でいつまた迷い続けていくかしれぬ。
そんなこの身に、「ちえむりょう」「じゅみょうむりょう」のおはたらき(ぷれぜんと)でもって、すべて果たしてくださる。
その結晶が「なもあみだぶつ」
これほどシンプルなことは無い。
4日間を通じて、罪悪・無常を教えられ、逃れられぬ因果の道理を教えられ、そのすべてはこの「なもあみだぶつ」から始まっている。
そのプレゼントを受け取っておくれよと。
ただ「わが名」を称えておくれよと。


大人から見れば、「こどもむけの法座でしょ」と思われるかもしれないが、必要なものはすべて揃っている。
それを「大人用だ、子ども用だ」と選別してしまうのが聴聞を邪魔する、我執のすがた。
自分は大人だと思っている。
少しはましだと思ってる。
難しい言葉がわかると思っている。
まったく、阿呆の限りだし、もったいないことだ。

阿呆って誰のこと?
いえいえ、ほかならぬこのわたしでございます。