水曜日には真カ研の月例会がありました。
ちょっと遅れていったのと、いつも使用している会場の入り口が閉鎖されていて、「もしかして昔の会場に戻った?」などと勘違いもあり、キャンパス内を(龍谷大学内に会場があるので)うろちょろ。
結局先月と同じ会場でしたが、その校舎の一番遠いところにある入り口まで戻る必要がありました。
ということで、着いたときにはチェックインが始まっており、そのときに話されている方が最後のようで、すぐに私の番。
会場に迷っていた話と(同じように迷った方が数名いたようです)先日の円座談に参加したこと、あと今年も行われる「京都市地域若者サポーター養成講座」の話を。
引き続いて、テキストであるロジャース氏の論文「十分に機能している人間」を前回に引き続いて。
正しいセラピーによって導かれたものにどのような特徴があるかということ。
そのひとつは「自分自身を再構成する仕事を完了した」という認識ではなく、今が「プロセスである」ということを知っていて、自分に自信があり、「どこに向かっているかわかっている」ということ。
ここをめぐっていろいろと意見を交わしたんですが、船をたとえに出して「まだ到着していなくても、今の状況を正しく知る事が出来れば、どちらに穂先が向いているか知る事が出来る」という話が興味深かったですね。
私のところでは、まず自信というものが無く、いろいろと周囲からの関わりで持って「こっちのほうに向いている」と教えてもらっても、「ほんとうに今の向きでいいんだろうか」と不安になります。
また、向きがあっていれば、今がプロセスの途上であっても安心できるのでしょうが、到着(完了)しないと最後まで不安のままのような気がします。
「今はプロセスでもいいんだよ」
「今の歩みでいいんだよ」
そういう言葉をいつも熱望しながら、実際かけてもらっても自分の「いいように」聞こえてこないと安心できない…
このあたりを考えるとき、先日の「円座談」で教えてもらっていることに通じてきている気がします。
もうひとつ大事な話題に「経験」という事がありました。
論文でもよく使われている言葉です。
私は、それは「積み重ねてきているもの」として、過去からつながってきているもの、私の歴史として、今の私を構成しているものだと認識していました。
一般的に使われる経験はまさにそうですよね。
しかし、ロジャース氏が伝えようとしていることは「今まさに対面してる瞬間瞬間の”経験”」ということだと。
円座談のセッションの中でも、一度起こってきた”感じ”を中心に、それをいかに表明するかということに思いをはべらせていました。
確かにそうしていることでも次々に新しい”感じ”が生まれてくるのですが、それはすでに過ぎ去ったものを考察していることになっていた気がします。
瞬間瞬間経験していることを、瞬間瞬間捕まえていく…
うん、イメージはわかるのですが、意識してそう持っていくことは難しい気がします。
いや、意識などせずに、そういう刹那を感じさせていただいていることも多々あります。
そのときは「十分に機能」しているようにしていただいたときなんでしょうね。
法座などで自力無効と知らされ、任せきる事が出来る瞬間などは、まさにそういう「刹那」に生きている瞬間ですね。
法に照らされるというのは、まさに「十分なセラピィに出会った」以上の高まりをいただいている気がします。
ちょっと話題がそれましたが、円座談で感じた「まだまだ未熟」な感じ、「上手く出来ない」感じを、ロジャース氏の論文を通じてもう一度かみ締める事が出来ました。
そこには、先に行っているものへの羨望と、ある程度進んだ気でいるのに突き落とされた悔恨とがうまれて来ます。
このことは別に書かなくても良かったんでしょうが、なにか得体の知れないものを感じてたので、ちょっとその感じに付き合ってみたときに言語化できたものです。
でも、そういう作業をしたことで、意外とその感じに引きづられていない今の私もいます。
事を読み知り
安心していたのもつかの間
だからと言って 人間関係がすぐにスムーズにいくと思ったのは 大きな落ち込みの原因
今 天気でいくと どしゃぶりの息もできないくらいの悪天候
私は私のままでいい という自信は 他の人とのかかわりの中で 傲慢に思えてきて 徐々にいつもの癖である 自責へと変わった
今 とても苦しい
外はいいお天気なのに 周りが何も見えない
おまけに 家族にまで 隠そうとしている
とくに子供たち
ふがいない母を知られたくない
>今 天気でいくと どしゃぶりの息もできないくらいの悪天候
自分をみつめて、天気にたとえてみて下さったんですね。
>今 とても苦しい
そうして言葉にしてみると「とても苦しい」気持ちなんですね。
周りにそういう自分を隠そうとしているんですね。
特にお子さん方にふがいない母を知られたくないんですね。
知られたくないこと、隠したいことは一杯あると思います。
それを隠し続けようとするのは苦しいですよね。
これは私の場合なんですけど、
「阿弥陀様はそんなあなたをもう全部お見通しじゃない」
ということを教えていただいたときに、ちょっと自分自身の見方が変わりました。
相変わらず、隠したり苦しんだりはするんですが、ほんの針ほどのスキマも作らないように必死だったのが、「もうお見通し」ってことで少し力が抜けました。
隠したり知られたくないという気持ちは変わらないまま、
「私はそう思っていても、それを駄目とはいわず、”うん、そんなあなただと知っているよ”と教えてもらったら」と聞かせていただきました。
ホッとしました
こんな 自分勝手なわがままな私のことをすべて分かってくださっている方がおられるのですね。と聞いても ほんとうに?という気持ちがでてしまうのですが・・・
でも 素直にならなきゃもう行き場所がない。
あの時は 無理しないで自然体の人がいて その人がうらやましくなったのです
そうすると たいてい苦しくなります
私も そういうふうになりたい
そして自分を見失っていく
今の自分で良しと思えない
私は私の感じ方で良いんだと思っていたものが ガラガラと崩れ始める
そして 私を責める声
「おまえは 自分のことばかりでいやらしい奴だ」「あの人のように 控えることをしらない」「おまえは傲慢な奴だ」「自分さえよければ 人などどうでもよいと思っている だから嫌われるんだ」「おまえなんかいないほうがいい」
などと 次から次へ出てくる
そして 苦しくなった
結局 人といて求めていたものは 私が楽にいられるように みなさんしてね
人のことなど思いやることはこれっぽっちもなく 気持ちの中では あの人より 私はまし
などと批判ばかりしている
人と交わろうとか 人を大事にしようとか その人に寄り添おう とか そういう気持ちがこれっぽっちも ない
自分の事ばかり
自分の居心地のよさばかり
こんなんだから友達を求めながら 実際にやっていることは その人と比べて優位に立ちたいだけ
友達なんかできるはずがない
だけど 人とつながりたい
寂しい
夫が 今尿酸値が高いので医者にアルコールを止められている
今日は12日目
お酒が飲めないことにより
暴れるかもしれないというのだ
我慢できないで苦しい
何をするかわからないって・・
夫の母親は殴られたりベルトで叩かれたり血だらけになるまで殴られ 何度か泣いていたところを見たそうです。
そして 私のほうは いらない子でした。
自分の気持ちは常に否定され
私が考えること感じることはすべて間違っている
正しいのは 私以外の人
だから自分に自信が持てなかった
いまさら
それは 強者によって私の感じ方を否定されていただけだった
と 言われて 喜んでみたが
体に染みついたものは どうしようもない
人といれば 必ず自分を否定する
苦しい時間となる
アルコール依存症のところにはこうあった
本当は、自分に自信がないのです。その自信のなさを無意識的にごまかします。自分よりももっとダメな人間を世話をすることで 自分のことを「マシだ。」納得するために。
「アルコールに依存しているダメな人間」よりもマシな自分に安心するのです。
そうなのです
自分が安心したいために 自分よりも悲惨な人の話がありがたくなってくる
そんな 悲惨な 人間関係なんか発展するわけない
夫のアルコール依存を望んでいる私
ということでしょうか?
ひどい
ひどすぎる
自分の安心のために 大切な人を傷つけるようなまね・・・
と言ってみても 私の安心のために 心の奥では・・・
確かに 夫が健康的ならば私は見捨てられる
そういう 気持ちがあります
夫には 悲惨でいてもらいたい
恐ろしいですね
もう 勘弁してください
私に自尊心があれば・・・
どうか 救ってください
私を・・
改めて ネットでこういうことを知ると 恐ろしくなる。
今 高一の長男に 話した
私が共依存かもしれないことを
こんな 話 息子にも同じものを背負わせてしまっただろうか・・・
どうすればいいの?
>ホッとしました
ホッとしたんですね、よかったなぁって感じがあります。
>でも 素直にならなきゃもう行き場所がない。
素直にならなきゃと思われたんですね。
私は無理に”ならなきゃ”とまで思わなくてもいいかな、と。
他の方がうらやましくなって、苦しく、「そういうふうになりたい」と思い出すと、自分を見失って、良しと思えなくて、ガラガラと崩れて、責める声が次々と出てきて、そして苦しいんですね。
>自分の事ばかり
>自分の居心地のよさばかり
ということを問題にされているんですね。
これが良い悪いかは別として、私もそんなことしか考えてません。
仏法のところでいくと、だから「地獄一定」でしかないし、目の前にある苦しみどころでないし、「南無阿弥陀仏」のおこころが私をお目当てにしているんだと。
自分ことばかりじゃない…、そんな理想の自分になれるような者柄ならば、南無阿弥陀仏は必要なかった…そんな気さえします。
>だけど 人とつながりたい
>寂しい
うん、寂しいんですね。
解決にはならないけれど、「寂しい」って口にしても大丈夫ですよ。
>自分が安心したいために 自分よりも悲惨な人の話がありがたくなってくる
うん、こういう気持ちは「出したら駄目」とか「誤魔化さないと」って思うんですが、ある・なしでいえば「ある」ですね。
人間同士の理性や飾る心でなんとか出来るうちはするに越したことは無いんでしょうけど。
というか、わたしにはそんな心しかないです。
>恐ろしいですね
> もう 勘弁してください
>私に自尊心があれば・・・
>
>どうか 救ってください
>私を・・
今私がお伝えできる事があるとするならば、「あなただけじゃないですよ」ってこと。
そういう風に思うのがあなただけじゃないっていう意味でもあり、あなたが「一人じゃない」って言う意味でもあり。
息子さんがこの話を聞かれてどう思われたのか、私には想像する術もありません。
> こんな 話 息子にも同じものを背負わせてしまっただろうか・・・
ということを問題にされているのでしたら、ご本人に聞いて見られるしかないと思います。
でも、「どうしたいか」を自分に問うてみたときに、「聞いてみる」ということを選べないならば、そこは無理する必要は無いと思います。
>どうすればいいの?
今は、どうしたいですか?
今は どうしたいですか?
の問いを一生懸命考えました
どうしたらよいのだろう?
答えという答えが出たわけではありませんが
あの後 耐えられなくなって 信頼できる人や姉に ありったけをぶちまけました。
もう隠している余裕はありませんでした。
ただ 夫には言えませんでしたが・・
そうしたことがどこかで私を応援してくれたかもしれません。
私自身 大切な家族を傷つけるくらいなら 私が傷つこうと思いました。
私が弱いと思っていること みじめだと思っていること こんなこと思ったら嫌われてしまうと思っていること それらを どんどんと出すようにしました。
私が生きることが 周りを傷つけるなら せめて 私の弱いちっぽけな自分をさらけ出すことによって 相手を踏みつけにしないように・・
それが 私にできることだと思いました
ところが不思議なことに そうしているうちに私の気持ちが 前に向いていました。
夫のアルコールもそんなに病的なものでも 依存症的なものでもないような感じに思えてきました。
どうなるかわかりませんが 今はこんな感じです
>今は どうしたいですか?
>の問いを一生懸命考えました
>どうしたらよいのだろう?
>答えという答えが出たわけではありませんが
問いかけに向き合ってくださったのですね。
ありがとうございます。
答えはでなくてもいいと思います。
そうやって、ほんのちょっとでも自分自身に向き合ってくださる事がとても尊いことだと思います。
>それが 私にできることだと思いました
すでに動いてみられたことが、「私にできること」と思われたんですね。
>どうなるかわかりませんが 今はこんな感じです
どうなるかわからないってことを受け止めるのは大きな出来事だと思います。
わたしは、そのことをとても嬉しく感じました。
これからも、いろんな心の動きがあるでしょうけれど、出来るときは出きるなりに、出来ないときは無理せず、ほんのちょっとだけでも「私はどうしたいんだろう」と向き合ってみることは大事なことだと思います。
それは大きな出来事なんですね
オープンになることがこんなに開放的だなんて・・・知りませんでした。
弱みを見せることが こんなに楽になるとは思いませんでした。
出せば出すほど よけいなことを考えることがなくなり「いま ここ」しかなくなりました。
それと同時に前ほどお念仏を称えなくなってしまいました。
どうしたらよいでしょうか?
>それと同時に前ほどお念仏を称えなくなってしまいました。
そうですか、いいんじゃないでしょうか。
お念仏を称えるのが”目的”になって、”お念仏を称えている自分”を理想にして、そうじゃない自分を”駄目”としてしまう…
これって無理が出てくると思います。
私自身を見ていくととてもとても「お念仏」を称えるものがらじゃないんです。
そんな私の口から”予期せぬ瞬間”に飛び出してくるお念仏があります。
そのお念仏を「これはわたしが称えたんだろうか」とか「お念仏がでたからこれでいい」とか、そういう私の”思い”に捉われるのをやめて、出るときは出る、出ないときは出ない…
わたしの思いとはなれたところで、お念仏は働いてくださっています。
今日はここまでだけ返信させていただきますね。