コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

”社会の問題”から”私”へ

2008-12-19 00:26:01 | 真宗カウンセリング
真カ研月例会の楽しみは、テキストを元に深めていくことももちろんなのだが、分かち合いながら脱線していくところでいろいろな話が聞けるところにもある。

昨日の場合は、非正規雇用の問題などが広がりを見せた。

現場でカウンセリングに携わっている方の参加もあるので、いろんな現状の話が聞ける。
その中には就職に関わることも少なくないだろうし、特にここ数日ニュースで見るだけでも多くの方が職を失っている。
私も先日まで、ニート問題の研修を受けているので、無関係ではない。

力量的に働く能力のある人が、非正規雇用の削減ということで就労できなくなっているのだ。
また内定取り消しという形で、入社考査を通っている人でも就労できない。
長い目で見てもらって、徐々に能力を磨いていかなければならない「ニートからの脱却」を図ろうとしている人には、さらに辛い状況が目に見えている。

そういう現状で苦しんでいる方と面談される方の苦労も相当なようだ。
いきおい、その矛先は非正規雇用という手法を取り込んだり、内定取り消しという手段をしている経営側に向いている。
そこには間違いはないし、もっともなご意見だと思う。

しかし、一方で「経営者側」の立場も知っている私としては、そこに一切反論がない…というわけにはいかない。
護らなければならない範囲の考え方の問題なのだ。
会社が苦しい状態で、雇用者をすべて抱え続ける体力がない場合、みなで共倒れするか、一部を切り捨て残りを護るかという選択に迫られる。
非正規雇用者をも護るために、正規雇用者の給与を下げて分配することを正規雇用者は受け入れられるのだろうか。
内定取り消しをなくすために、自分たちの賞与をカットして採用することができるのだろうか。
まだ給与が安く、将来的に会社に貢献できる若者を雇用するために、給与が高く定年まであと少ししか会社に貢献できない管理職の人を解雇することを納得できるのだろうか。

さらに考えていくと、今は大手の首切りが目立っているのだが、その影では中小の企業が倒産し続けている。
大手の下請け的な立場の企業は、いまの非正規雇用者を処分する以前に、淘汰の嵐にさらされている。
仕事の対価を下げるだけ下げさせられ、さらに少しでも安い同業他社があればそちらに仕事をとられる。
赤字でも「いつかは報われる」と仕事を続け借金を重ねるか、あきらめて廃業するしかない。
経営側も苦しいのだ。

職を失って苦しんでいる人へのカウンセリングと同じくらい、経営側のカウンセリングも必要なんじゃないだろうか。
しかし、今精一杯動き回っている人たちには、ゆっくり自己を振り返っている余裕はない。
職のない人は、時間だけはあるのでカウンセリングを受けることもできるだろうが…
正式な数字は知らないが、無職で苦しんで死を選ぶ人と同じくらい、経営に疲れて死を選ぶ人が居るんじゃないかと思う。

こう考えていくと、本当の意味での「共産」という考え方、あるいは行政主導の「社会主義」というものが必要なんじゃないかと思えてくる。
ただ、今私が知っている現実の「共産主義」や「社会主義」はほんとうの理念から離れているものだし、机上の理屈が現状に効くとも思えない。

などと、出口のない考えがいろいろめぐってくるのだが、「この社会を何とかしなければ」というところまで思いはいたらず、せめて身近なところから「つながりを持っていきたい」と願うのが精一杯だ。
そのこともある参加者がおっしゃってくださって、引き戻してもらえた。

身近なところでの変化…これは昨日書いた事につながり、カウンセラーが経験を積むことでクライエントに起こってくる「知覚」による正の変化をともに学びあうことになるんじゃないかなと。
だとすることは、まずは私が学び、経験を積むことからはじめるしかない。

以前学んだフィールドワークでの言葉がよみがえって来る。
「社会で起こることはグループで起こり、グループで起こることは私に起こる」
これを逆にすると、「私が変化すればグループが変化し、グループが変化すれば社会が変化する」といえるんじゃないだろうか。
嘆き悲しむだけでなく、身近なところで動いてみるしかなさそうだ。

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