コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

あっという間の1週間

2009-08-16 00:09:58 | 日常雑感
連れ合いの実家寺への帰省もふくめて、仕事的には夏季休業の一週間。

その間に、カウンセリングの師とのミーティングを兼ねた話し合う時間とか、富山での法座で聞かせていただいたお話だとか、また法座でごいっしょしたミニカンを共に過ごした仲間とのふれあいだとか、ブログに残しておきたい出来事がいっぱいあった夏です。

また個別にエピソードとして取り上げることができればいいなと。

逆に心を閉じるようなことや、映画や政治のことで思いを募らせることもあったりしました。

そういう意味ではネタはつきませんね。

それらを追って行っても良いのですが、明日にはまた法座がありますし、来週の半ばにはミニカンが、週末にはカウンセリングのワークショップもあります。

時間軸に沿うことにこだわらず、そのとき書きたいことを出来るだけ…
そう思うのが今の私ですね。

なんでもかんでも「開く」のでもなく、「ここには触れないでおこう」という声にも応えて行く…そこに無理が無ければ、これも「一致」ではないかなと。
他人にはしんどく見えるのかもしれませんがね。
(などと、意味深なことばかり書くのはやめときましょう)


真宗カウンセリング in 子ども大会

2009-08-07 08:43:34 | 真宗カウンセリング

子ども大会の法話を中心に5回書いたが、この法座の間にお二人の方と真宗カウンセリングについて話をする時間があった。
そして、そのどちらもとても興味深く、大いに刺激をいただいた。

一人の方は、カウンセリングにおいては先輩であり、いろいろと背中を押していただいている方。
子どもらを迎えに行く車の中で、以前このブログに書いたことをきっかけに話が進んだ。
その方は、最近「共感」ということを深く味わっておられるらしい。
意識的に寄り添っていくのではなく、自己を開いていくことで相手に伝わるもの…それによって、二人の間の境目が無くなって「共感」出来ている状態があると。
この感覚は、実はわたしにはまだよくわかっていない。

「自己一致」することで見えてくる自分自身と、意識化できなくても底辺のほうにある「私」の部分。
寄り添っていき「受容」することで、意識化できていなくても底辺のほうにあると感じられる「あなた」の部分。
「私」と「あなた」の二つの三角形が重なり合うとき、重なっている底辺のイメージ。
そこが「共感」なんだというのが、いままでのイメージ。

真宗カウンセリングにおいては、そこは「超個」であり、ともに「仏に願われている」という部分で「安心して共有できる」ところだと思っていた。
だとすると、この方の味わっているものとはちょっと違う。

今の自分自身を振り返ってみると、カウンセリングの三条件のうち一番難しいのが「自己一致」だと思っていたし、やっとそのあたりを知識的ではなく感覚的に押さえる事が出来てきた気がするし、「受容」に関しては「尊重」というところで最近深まってきてる気がする。
そう考えると、「共感」に関しては、頭のイメージで持っているだけで「体感的」なものがはっきりしない。
上に書いたように「超個」ということであれば、法座ですっと感じていることなので納まるのだが…

ということで、まだ私が体感できていない「共感」の境地があるというのは、とても刺激的だ。
ここは、知識的に追い求めるものでも、意識的に体験していくのでもなく、カウンセリングやワークを体験していく中で、「良い関係」が出来上がったときに「これだ!」と体験するものなんだろうな。
そういうものが「ある」と教えてもらっただけでも、すごく大事なことだと。


もうお一人とは、先日行ったワークに出席された方と話されたことから感じたことを、「ぜひ高橋さんに話したかった」と。
話の詳細は書かないが、ちょっと否定的な気持ちになることを言われ、最初は嫌な感じだったけど、そのことを通していろいろ考える事が出来た…ということ。
何をして「本当に聞いてもらえた」というかは、それぞれの方の経験や比較の中で話されることだけれど、こちらが「聞いてあげている」というのと相手が「聞いてもらえている」というのはなかなか一致しなかったりする。
しかし少なくとも、「聞いてもらえてるとは思わないけど、それを言ったらこの人に悪い」と、自分の気持ちを殺して隠してしまうよりも、「聞いてもらえてると思わなかった」と言ってもらえるほうが「一歩進んだ関係」になっていると思う。

そういう「否定的な感情」でも表に出していいんだということを学ばれた方が、そのことを口に出す。
口に出された方もそれを受け止め、そう言える「関係」を作れたことを意識してみる。
世間的なお付き合いだとすると、ちょっとややこしい関係に見えるかもしれないが、お互いにとって次のステップにつながる大事な出来事じゃないかなと。

私自身、その方とお話して、それぞれの方の変化を通じておおいに刺激をもらった。
私がワークをしたことで、こういう風にいろんなところで波紋が広がっていく。
責任も重大だけれど、やりがいはある。
そして、私自身、ますます勉強し経験していかなければ。
得をするのは私自身だから。


次は8月22・23日に金沢でワークショップがあります。
定員まであと数名…締切までは間がありますが、希望者はお早めに。

第5回 真宗カウンセリングワークショップ


仏の子ども大会 5

2009-08-05 23:31:44 | 真宗
4日目は午後にも閉会式としてご法話がある。

朝の法話・分級座談会も終え、帰り支度も済ませて、あとはそれぞれの思い出を持って帰るだけ…ところが、この最後の最後に、とても大事なお話がいただける。

子どもらそれぞれがわからんなりにも「わたしとはどういうものだろう」ということを内省し、深く見つめていった先に、「そんなわたしにかけられた願い」を聞かせてもらえる。

テーマとして書かれはしなかったが、「ほとけさまのプレゼント」でいいんじゃないだろうか。

プレゼントの包装には宛名が書いてある。
「○○ちゃんへ」と「なもあみだぶつ」。
ほとけさまのプレゼントも衆生それぞれに充てて、その一人一人をめがけて贈られる。
その中身は…

お仏壇のお荘厳を通じて、阿弥陀様の働きを教えてくださる。

お灯火をもち「ちえむりょう」
自分で自分を見ることは出来ない。
自分の姿を映す鏡の前に立っても、光に照らされないと何も移らない。
無智で自分を知れないわたしに向かって、光で照らして見せてくださる。
智恵のおはたらき。
これが限りない。
これが「なもあみだぶつ」のお働きのひとつ。
「光明無量」とも言うかな。

今度はお花を持って「じゅみょうむりょう」
命・時間に限りがあったら、迷いに迷い続けているこのわたしを救うためには条件が出来てしまう。
それでは願いがはたせない。
だから無量の命で持って「必ず救うぞ」と。
花びらが一枚散っても、まだまだ控えているさま。

実はわたしは、お仏壇のお供えとして「献灯・献花」するから、こちらから荘厳しているイメージがあった。
そういえば、お仏壇の花はほとけさまの方ではなくこちらを向いている。
「何故なのか?」というお話を聞いた事がある。
それが、この日のご法話ですごくよくわかった。
お光もお花も、ほとけさまのお働きを現している。

自分のしていることを見つめることすらできず、限りある命でいつまた迷い続けていくかしれぬ。
そんなこの身に、「ちえむりょう」「じゅみょうむりょう」のおはたらき(ぷれぜんと)でもって、すべて果たしてくださる。
その結晶が「なもあみだぶつ」
これほどシンプルなことは無い。
4日間を通じて、罪悪・無常を教えられ、逃れられぬ因果の道理を教えられ、そのすべてはこの「なもあみだぶつ」から始まっている。
そのプレゼントを受け取っておくれよと。
ただ「わが名」を称えておくれよと。


大人から見れば、「こどもむけの法座でしょ」と思われるかもしれないが、必要なものはすべて揃っている。
それを「大人用だ、子ども用だ」と選別してしまうのが聴聞を邪魔する、我執のすがた。
自分は大人だと思っている。
少しはましだと思ってる。
難しい言葉がわかると思っている。
まったく、阿呆の限りだし、もったいないことだ。

阿呆って誰のこと?
いえいえ、ほかならぬこのわたしでございます。

仏の子ども大会 4

2009-08-04 23:20:59 | 真宗

4日目の朝のご法話。

ほとけさまのお名前の話から。

あみださまの前のお名前は?
「シッタルダ」「せじざいおうぶつ」…
うーん、間違ってるとはいえ、子どもらからこういう答えが返ってくるのはすごい。
いろんな法話や、ビデオ・スライドを一生懸命聞いてくれてるんだねぇ。
(大学生にっても「あみださま」と「おしゃかさま」の違いがわからない人もいるからねぇ)
ということで「ほうぞうぼさつ」が答え。

では、「おしゃかさま」の前の名前は…
こちらは、王子としてじゃなく、王子に生まれる前の前生のお名前。
それは「シビ王」
そして「シビ王 と はと と たか」のおはなしをしてくださいました。
(ジャータカ物語)

おなかをすかせた「たか」から「はと」のいのちを救うために、はとと同じだけの肉を「たか」に与えようと言うお話。

はとの大きさと同じだけの肉を秤に乗せてもはととつりあわない。
どんどん他の部分の肉を切り落とし秤に乗せても駄目。
その身(いのち)を全部投げ出して、はじめて秤がつりあう

肉の塊としての量を同じと見るのじゃなく、「ひとつのいのち」としてみるとき、はと一匹と人間ひとりは等しい。

そのあと、種をまくとそこから芽が出る。
ひまわりの種にはひまわりが、アサガオの種にはアサガオが。
ひまわりの種にアサガオの芽はでない。
そう、「因果の道理」のお話。

”わたし”はいのちをいただいて生かされているのだから、いただいたいのちと同じだけのお返しをしなければいけないということ…

この日も「わたしはどういう存在なのか」ということを徹底的に教えてくださいます。

担当のK先生のゆっくりとした、それでいて力強い声でのお話。
その”間”が、こどもたちにいい緊張感を与えていて、のめりこむように聞いていました。
先生の「わたしの聞かせていただいたもの」が確かに伝わっていったと思います。

 


仏の子ども大会 3

2009-08-02 22:40:31 | 真宗

三日目のご法話は、昨日のようにテーマを黒板に書いたり、その言葉を使ったりはされなかったが、「無常」についてのおはなし。

法話の先生は仕事柄、子どもたちにいろんな話をする機会のある方。
その先生が、夏休みを控えて、子どもたちにいくつかの「夏休みの注意」を話したときのお話。
 自転車のじこ
 手洗い・うがい
 知らない人についていかない
 ぼうしをかぶる
 海に行くときのちゅうい
 プールに行くときのちゅうい
これらは怪我や健康上の注意です。
でも、先生が子どもらに伝えたいのは、こういうことを注意することよりも「死なないで欲しい」ということです。
普通に自転車でぶつかるくらいや、うがいを怠って風邪をひいたり、ぼうしを忘れて熱中症になっても、普通は死ぬとは思ってません。
でも、いくらこれらのことを注意していても「死」がなくなるわけじゃありません。
「無常」…それはいつ死がやってくるかわからないということです。
仕事の場では「死なないでほしい」というところまでしか言えなかったのでしょうが、本当は「いくら注意しても、死はやってくるよ」ということを教えてくださいました。

そしてある子どもの話をしてくださいます。
その子は5年生ですが、お風呂でおぼれて、死にはしませんでしたがずっと意識が戻らないままだと。
5年生の子が、まさかお風呂でおぼれるなんてだれも思っていません。
もちろん、その本人も思っていなかったでしょう。
思いもよらぬ事が起こってしまう…
大変なことです。

もうひとつ、先生の知り合いの方が亡くなったエピソードもお話くださいましたが、その方がなくなったことよりも、いつも「○○さんの後生は大丈夫か?」と問い続けてくださったことをお話くださいます。

先生も子ども大会出身です。
今回参加してる子どもらと同じ頃に、一生懸命お話を聞き、それでもそのときはわからなかったけれど、やがて大人になってしっかりと仏法を聞いて「大丈夫です」と教えていただいたと。
そのために必要だったことは「わたしはどうなるんだろう」ということを、しっかりと聞かせてもらい、見つめること。

最後のほうで先生は胸に来るのもがあったのか、少し言葉が詰まっていました。
小さな子にはわからないでしょうが、中学生くらいになると、言葉じゃなく雰囲気で「大事なこと」っていうのが伝わったんじゃないかと思います。

この3日間を通じて、「私のしていること」、「私はどうなる」と、徹底的にこのわたしのありようを教えてもらっています。

残すは後一日。
今日までは半分レクリエーションのプログラムもありましたが、いよいよ最後はしっかりと仏法に浸る一日です。


合間の時間にスタッフの先生方といろいろ話する事がありました。
それぞれ、子どもの頃から参加してる先生方ですが、スタッフとして初めていろんな役割をされています。
子どもで参加していなかった頃は知らなかった、先生方の苦労を身に染みて感じている姿に、大変だろうけど素晴らしいことだなと。
お世話する側の苦労まで体験して、初めて「子ども大会育ち」となるんですね。
それは、ずっと昔から、このわたしにかけられてきた願いを、逆の立場になって”ほんの少し”感じさせてもらえること。
彼らの姿を通じて、味合わせてもらえます。

南無阿弥陀仏 
 


仏の子ども大会 2

2009-08-01 23:13:43 | 真宗

から始まる開会式にあわせてご法話の時間があるが、二日目からは朝起きて食事前の時間(7:20から)におつとめとご法話がある。
ビデオ撮影もあるので、朝からお参りして、子どもらといっしょにご法話を聞かせていただいた。

ご法話のはじめに黒板に大きく今日のテーマ「罪悪」と書かれる。
その読み方、意味を知っているかとのお尋ねに、子どもらが答えていく。
例年、このテーマの時には具体的に「わたしがしていること」について工夫して話される。
今年は、その部分をビデオ鑑賞に費やされた。

プロジェクターを通じて映される映像は、豚・魚・鳥・牛が、工場のような作業場で流れ作業で肉塊にされていく姿…
音楽もナレーションも無く、ただ淡々と作業する人のすがた。
生きているときは断末魔の叫びを上げるが、次のシーンではつるされた骸となり、首を落とされ腹を割かれ、血が滴り落ちる…
いのちの食べ方

小さい子の中には気分を悪くした子もいたかもしれない。
でも、知らないだけで、そうやって奪ってきたいのちのおかげで今ここに生かされている。
そのことを批判したり、菜食を薦めたりすることではなく、罪悪をテーマとして「わたしは何をしているんだろう?」ということを見つめるきっかけのひとつとして。

今日の先生は、そのことを投げかけてくださった。

この映像の話はいままで何度か聞いた事がある。
ご法話のテーマとしてはわかりやすいものだ。
しかし、いままで話で聞いて想像していたものと、実際に映像で目の当たりにするものはやはり違う。

ちょうど、今朝見つけたニュースに次のようなものがあった。
「学校の授業で先生が、自分の子どもの出産シーンを上映した」と言うもの。
(産経新聞

ニュースとしては、この映像を見て生徒の一部が気分が悪くなったと保護者が訴えて、学校が謝罪したというもの。
その方法の是非は今は問わないとして、「見ていて気分がわるい」ということで、実際にあることを「隠す」ばかりでは、本当の自分を見つめることはできないんじゃないかと。
この先生はこの先生の考え方、やり方で「命の大切さを伝えたかった」ということらしい。

今日の映像も、「自分の罪悪って何?」ということを考えるきっかけになると思う。
見た目は確かにきつく、目を背けたくなるが、目を背けても自分のしていることは変わらない…これってとても大切なことだと思う。

とはいえ、いっしょに連れて行ってこの映像をびびりながら見ていたわたしの次男坊は、何も無かったように夕食にハンバーグを食べていた。
まぁ…そんなもんです。