生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

志望校変更の瞬間

2011年03月06日 05時28分46秒 | ちょっと立ち止まって・・・
昨日の「学歴(SCHOOL-RECORD)について、想像に反して多くのコメントをいただいた。

そんな中で、「どうして私は志望校を変更できたのか」ということを思い出した。当時の高校生活において、一浪しても当然という雰囲気であり、現役時代の受験は国公立を中心に受験するのが普通であった。浪人すると、第一志望の大学とともに、関関同立あるいは早慶を始めとした私立大学を併願することとなる。

当時は、前期・後期といった区分はなく、国公立は1校しか受験できなかったのだ・・・

以前も書いたかもしれないが、共通一次(現在のセンター試験のようなもの)が終わって、玉砕覚悟で京大を受験する準備をしていたところ、クラスメイトが二次試験の願書を取りに行くのについてきて欲しいとのことで、その大学についていくこととなった。

それが、今の私の母校である。

彼に誘われなければ、きっと、私の母校は違ったところになっていたかもしれない。実際に、大学というところに行って、いたく感動したのを覚えている。「やっぱり、大学はでかいなぁ~!」と思ったわけだ。非常に好印象!学習するには、最高の環境だと思ったのだ。

願書はタダだったので、私ももらってきた。そして、その大学について調べ、確か、両親にもその大学について聞いたような気がする。ランクを落とすことに対して、了解もとれたので、受験することとなる。

このように書いてしまうと、いとも簡単に志望校を変更したように思えるが、変更を決断するまで、かなり迷ったのだ。でも、最終的に変更した際に、大きな力となったのが、高校のときの先輩の存在があった。

私は高校のとき、生徒会執行部に所属していたのだが、前々期の会長が、学年トップレベルの非常に優秀な方であった。面識はないが、噂は知っていた。東大でも京大でもいけて当然の方だったのだが、受験に失敗して私の母校の法学部に入学したと聞かされていた。偏差値至上主義の環境にいたから、志望校の偏差値を落とすことを、当時の我々は「受験に失敗」と呼んでいたようである。

今まで、受験など考えたことのない大学であったが、その先輩が行ったという情報が、脳裏にかすかに残っていたことで、受験してもいいのではないかと考えるようになった。

ちなみに、その先輩は、在学中に司法試験に合格し、今では、母校の教授になっている。

このように、いくつもの偶然を経て、母校にたどり着いたわけである。私はその先輩のように、リベンジで司法試験を狙うこともなかったが、それなりに、色々と充実した4年間を送ることができた。第一志望の大学だけが人生じゃない。それが証拠に、私にはいくつもの母校が存在している。

逆に、私の先輩のように、司法試験に合格するだけなら、どこの法科大学院でもかまわない。むしろ、そのまま大学の教授になるのなら、大学のランクを下げたほうが、母校に残れる可能性は高くなるのかもしれない。ひょっとしたら、その先輩は高校きっての天才だったから、そこまで考えて、意識的に受験校を下げたのでは・・・と勘ぐってしまう。

塞翁が馬。何が良く影響するか、何が悪く影響するか・・・それは将来の自分にしかわからない。だが、多くの人々が自分の培ってきたキャリアをベースに、日々、生活しているのは事実である。「今日の勝ち組」が「明日の負け組」になることもあれば、「負け組」といわれていた人が、リベンジを果たすこともよくあることである。

わずか、18歳のときの自分が、偶然が重なったとはいえ、第一志望という呪縛から解放されたのは、今から振り返ると、大きな悟りだったのでは・・・と思わざるを得ない。とはいえ、若くしてそう悟ったからこそ、大学院も「ブランド」ではなく、本当に必要な学びができるところを選べたのだと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする