生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

本日の機構!

2012年01月14日 21時06分43秒 | 大学評価・学位授与機構
全国の機構ファンの皆さま、ご無沙汰しております!

って、どっかで聞いたような、出だしで始めてしまいましたが、今年最初の機構の写真です。2月の結果が待ち遠しくある一方で、不合格なら、結果がこないほうがありがたいような気もします。

まあ、自分の努力の結果だから、やはり、どのような結果でも受け入れなければならないのですが、凡夫なので、弱気であります。
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卒業研究履修の手引

2012年01月14日 20時52分02秒 | 放送大学
で、今回最大の懸案事項である「卒業研究の履修」についても、お伺いしました。

全科履修生として3年次編入した場合、2年で、卒業研究を履修して卒業できるのか?十分可能との回答でした。ついでに、24年度履修者用の「卒業研究履修の手引」と「同(別冊)」を無料で配布いただきました。

「卒業研究履修の手引」のp.5には、卒業研究履修申請条件は2年以上在籍し、62単位以上修得しないと履修申請できないこととなっていますが、カッコ書きで「3年次編入学者は2年在籍したものとみなします」とされています。

で、前掲書のp.57には、心理と教育コースの指導教官の名前が12名記載されており、修士の指導教官とほとんど重複していることが確認できました。

すなわち、修士の指導教官と同じ指導教官の下で卒論を書くことが許可される可能性が残ったこととなります。卒論のテーマは、「通信制大学・大学院」について書こうと思っています。

実際、自分が経験した通信制の大学、通信制の大学院と、通学制の大学、通学制(夜間)の大学院の比較を通じて、通信制大学・大学院はどのようにあるべきか、問題点は何かをまとめていければと思っています。





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放送大学へ!

2012年01月14日 20時37分13秒 | 放送大学
借りていた本を返すために放送大学多摩学習センターへ行ってきました!

ついでに、入学手続きについて、かねてより迷っていたことを窓口できいてきました。ちょうど、オープンキャンパスをやっていたため、窓口にはスタッフの方が1人しかいないので、躊躇しましたが、折角なのでお伺いしました。

1.科目履修生ですが、全科履修生になった際、写真票を新たに提出しなければなりませんか?
 ⇒必要。全科履修生になるので、新たに写真を登録して欲しいとのこと。

2.継続学習の書類が送付されてきましたが、廃棄してもいいですか?
 ⇒不可。継続学習用の封筒を使って、全科履修生の申し込みをして欲しいとのこと。

3.全科履修生の出願書類に大学の卒業証明書は不要ですか?
 ⇒不要。提出する必要はないとのこと。

色々とお忙しい中、親切に教えていただきました。
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自力と他力のハザマで・・・

2012年01月14日 08時46分12秒 | ちょっと立ち止まって・・・
親鸞聖人は絶対他力の教えを説いた。

そういう意味では、私のように浄土真宗の門徒は、自力による救済はNGといえるかもしれない。しかし、それは、極楽浄土への道のりにおいてであり、生きていくためには、やはり、自力による救済が必要不可欠になる。

そう、念仏を唱えていても、大学には入学できないし、資格試験においても合格を勝ち取ることはできないのである。

執着心を捨てるため、南無阿弥陀仏と唱えるのは、非常に効果的であるし、真宗門徒のお勤めである「正信念仏偈」を念ずることで、心が澄みわたる境地に到達しつつある。

それでも、この世知辛い世の中で生きていくためには、自分自身を含め、色々な事柄と闘うことも必要となってしまう。来世の幸せだけでは、現世は生きていけない。他人を蹴落とすのがイヤだから入試は受けないとか、自分が合格すると、誰かが不合格になるからと就職活動をしないわけにもいかない。

すべての企業において、「経営企画部」と同列で「念仏部」があれば、「俺は念仏部長を目指してがんばるぜ!」と一心不乱に念仏に邁進することもできるだろうし、あるいは「写経課長」や「読経主任」を目指して、キャリア開発もできるかもしれない。でも、それは、叶わぬ世の中なのである。

働かねば食べてはいけぬ。それが人の世の業であり、世捨て人なにならぬなら、そのことわりに従わねばならぬ。ゆえに、基本は自力なのである。しかし、その自力でがんばって、なお、必要なものについては、他力にならないと、責任感のある人は、死ぬまで努力するという悲惨な結果となるのであろう。

あと、往生に関する救済は真宗門徒は他力である。それは、努力してもどうしようもない事柄だから。そして、真宗では、他宗教を排斥しない。修行や苦行の末、浄土に導かれる人もいるのだろう。

でも、我々門徒は、そんな厳しい修行や戒律を守ることはできない。だから、仏説無量寿経にある、法蔵菩薩(悟りを開いたのちの阿弥陀如来)が立てた本願(第十八願)である、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、私はさとりを開きません」という言葉を信じて、「南無阿弥陀仏」と唱えるのである。

法蔵菩薩は悟りを開くことができた。だから、この本願である「信じて念仏」しさえすえば、必ず救済される。それが、他力本願なのである。

ゆえに、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な言葉について、「初めてであう歎異抄」という本では、「自力で善行・修行に励んで悟りに達しようとする善人は、誓願仏力に身を任せる心が欠けているので救いの対象とならない。しかし、自力の心を改めて誓願仏力に身をゆだねれば、真実の浄土に生まれることができる。煩悩いっぱいの私どもは、どんなに善行を励んでも、迷いの人生から解放されることはない。こんな人間を哀れんで立てられた誓願だから、目的は悪人成仏であり、誓願仏力を信じる悪人こそがいちばんの正客である。だから親鸞様は「善人でさえ浄土に往生できる。ましてや悪人は」とおっしゃったのである。」と記載されている。

精一杯がんばったと思えば、あとは、合掌して「南無阿弥陀仏」と唱えるだけ。そして、見たこともないし、見た人もいない来世の世界についても、気にせず合掌して「南無阿弥陀仏」と唱えるだけ。そして、不運や残念なこと、あるいは、理不尽なできごとについても、自分の力でどうにもならないなら、これもまた弥陀のお導きと感謝して「南無阿弥陀仏」と唱えるだけ。

というか・・・自分が「不運」というのは、どうして「不運」と断定できるのだろう。突然の仕事で約束がキャンセル。「何でこんな不幸にあうのか!」と怒っても仕方がない。そして・・・その約束に行っていたら、事故にあっていたかもしれないのだ。そんな場合なら、「突然の仕事よ、ありがとう!」って感謝することだろう。

先週の比較宗教のスクーリングでも、仕事の都合で新婚旅行を見直した結果、エジプトルクソールでの邦人虐殺のツアーの前のツアーにスケジュールされ、命を取り留めた住職さんの話があった。このケースでは、もしもの未来が見えているので、「命拾いしたね」と言われるが、自分では知ることもできない、変更される前の未来なんて、今の自分と比較することはできないのだから。

私の勝手な解釈なので、叱られるかもしれないが、今まで学んできた結果が、このようなスタンスなのだから仕方がない。とはいえ、これからも進化し続けるので、固定されたわけではない。しかし、唯一、すべてに対して、感謝する気持ちだけは、不変でありたいと願っている。
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今日の富士山!

2012年01月14日 08時14分55秒 | 富士の高嶺
全国の富士山ファンの皆さま、ご無沙汰しております。

私の努力不足で、日々の富士山をお伝えすることが十分できておりませんが、今朝の富士山でございます。

とはいえ、ズームを使わない本当の風景は以下の通りなのですが・・・
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