以前のブログで、故玩館で所蔵している高札のいくつかを紹介し、江戸時代の高札についていろんな側面から考えてみました。
引き続いて、今回からは、幕末~明治にかけての高札を中心に紹介し、高札制度が終焉する過程を追ってみたいと思います。
まず、高札と高札場について大まかにおさらいしておきます。
高札とは、法令・禁令などを人々に周知徹底させるために墨書した木板です。宿場、街道の分岐点、関所など、人目につきやすい場所に掲示され、人々に法令、そして、支配者の意向を伝えました。
高札(古くは、制札)は、奈良時代末期からすでにあったと言われています。室町時代、戦国時代をへて、次第に国中に広がり、江戸時代に高札制度が完成しました。
徳川幕府は、高札を法令公布の主要な方法と位置づけ、全国津津浦々にまで行き渡らせて、人々に法令遵守を迫りました。高札はまた、徳川幕府の権威を象徴するものでもありました(『高札ー支配と自治の最前線』大阪人権博物館、1998年、武原万雄「高札研究をめぐる現状と課題」明治大学博物館研究報告第12号、123-148、2007年)。
やがて、徳川幕府は倒れ、王政復古の新体制ができましたが、新政府は、これまでの高札制度をそのまま利用して、民衆への法令公布を行いました。なおかつ、新しく発給された高札も、その内容のほとんどは、徳川治世を踏襲したものだったのです。しかし、諸外国の反発や印刷技術の発達などにより、明治政府にかわってからわずか6年で、長い歴史をもつ高札制度は終わりを迎え、高札もその使命を終えました。
江戸の大高札場(歌川芳虎「東京日本橋風景」(明治3年))
次に、高札場についてです。
各種の高札が出されるようになると、高札は、高札場にまとめて掲示されるようになりました。高札場は、往来の激しい道筋や人々が集まりやすい場所に、一段高く設置されました。宿場には、必ず、高札場が設けられました。各村にも高札場が設置されました。幕府の中心地、江戸には、42カ所もの高札場があったといいます。
高札場の大きさは、その重要度によって様々です。街道の起点や主要地には、大きく立派な高札場(大高札場)が、地方の小村にはささやかな高札場が作られました。
大高札場の中には、10枚以上の高札を掲げたものもありました。
たとえば、岩国藩柳井奉行所横には、大きな高札場があり、その守護役が決められていました。御高札守護役大野家には、関係文書が数多く残されています(『御高札守護役 大野家文書』柳井市立柳井図書館、2003年)。その中には、高札場普請の概要が記されているものがあります。それによると、主柱5本(太さ5寸角、長さ壱丈壱尺)を立て(壱尺七寸五分ほど埋めて)、貫(巾3寸)を間隔二尺壱寸で3本渡し、上部に三尺壱寸五分の屋根をつける。両端の主柱の間隔は、弐丈三尺弐寸五分。寸法通りに作れば、できあがりは、高さ3m、横幅7mほどの巨大な高札場となります。そこへ、16枚の高札を3段に掲示したといわれています。
幕府は、高札と高札場の管理責任を藩に命じ、藩は日常の管理を各村に負わせました。維持管理の経費や手間等、村には相当の負担でした。
大きな高札場には、前述のような高札守護役が定められていたらしいのですが、詳しい事はわかっていません。
文字の読めない人々に読み聞かせるのは村方三役(名主(庄屋)、組頭、百姓代)の仕事でした。また、高札の文面や各種御触書の記録を残すのも、彼らの任務でした。
高札は、支配者の意向、そして威光を示し、伝達する手段であったわけです。ですから、高札制度の興隆、衰退は、権力の趨勢を反映しているといえます。また、時には、高札をめぐるいろいろな出来事から、世相や時代の雰囲気を感じ取ることができることもあります。
故玩館にある高札は種類も数も限られたものではありますが、物としての高札をつぶさに観察しながら、事としての高札を考えていきたいと思っています。
前回の「唐物茶棚」の天板の文字(あの梵字みたいな)がなんて書いてあるのか?うちのお母さん(書家)にきいてみたのですが、「篆書と隷書の間のものよね・・」以外に結局わかりませんでした。。ちせいさまに教えてよろこばれたかったのに・・⤵)
天板の文字は、十體字のうちのナンカだと思うのですが、いずれ時間をとって地道に探ろうと思っています。お母さまにもよろしく。
チットさん、教える関係のお仕事と考察(^.^)いたしました。
高札にはそんな意味があったのか! また、本物の高札(?)というものはどのような物だったのか! ということを知り、ビックリしたからです。
以前、骨董市などに高札まがいの物が時々登場していましたが、最近では、めっきり登場しなくなりましたね。もう、これも、収まる所に収まってしまったからでしょうか、、、? 或いはゴミとして処分されてしまったからでしょうか、、、?
また、続きがブログアップされるのですね。
楽しみです(^-^*)
できるうちにやっておかないとダメですから。
高札は面白いですね。誰でも知っているようで、その実、!?となります。私もそうでした。最初の一枚を骨董屋で買ったときは、真贋、値段も含め、これでよかったのだろうかとずいぶん悩みました。以前の陶磁器、その後の掛軸、みな同じ過程をたどっています(^^;
その後、高札についての知識経験が増えて、骨董屋が私に尋ねて来るようになりました(^.^)
明治新政府が高札制度をちゃっかり利用する抜け目なさが面白いですね。
いつの時代でも官僚は頭がいいですね。
それでも、自分の持っている品から小さな発見ができたときは、正直うれしいです(^.^)
新政府のずるがしこいのは、徳川の高札制度をちゃっかりと使う点もさることながら、その内容が徳川のものと本質的には同じであることです。
高札は時代劇などでもよく見ましたが、こういうきちんとした説明は初めて聞かせていただきましたから。
手元にある高札をもう一回見直してみて、プチ発見があればと思っています。