パリで過ごすクリスマスは、私の理想のクリスマスの過ごし方ではありますが、「ふらんすはあまりにも遠し せめては新しい背広を着て気ままなる旅に出でてみん…」と萩原朔太郎?が書いたように、この時代になっても遠いものは遠いのです。
それでも行けなかった萩原朔太郎には申し訳ありませんが、二度ほどクリスマスをパリで経験しています。
パリのクリスマスの何が良いか、、、というと、都市であっても、闇の光の程好い加減に居心地の良さを感じるからです。
日本の都市は、光で溢れています。東日本大震災があっても、夜の光の希求度は、日本人の傾向であるように思います。
よほど、電気の無い時代に、寂しく暗い夜を過ごした民族なのだろう。。。と思うのです。
寂しく暗い夜の時代が長かった故に、光を得た時点で、その光を満たすべく眠っていた闇の不安感が意識に上がってきたから、その不安を満たすべく明るさを必要するのかもしれない、と勝手な解釈をしています。
闇に浮かびあがる光が強い必要がどこにあるか、、、というと、やはり、DNAに潜んでいる闇に対する人の不安度なのかな、と思うわけです。確かに闇に対する極度な不安感は、私にもありました。
強烈な漆黒の闇といえば、ヒマラヤの麓の山小屋に泊まった時に経験し、二度目はスロベニアの村でした。夜12時になると教会の塔の明かりが消されます。そうなると漆黒の闇が部屋に広がります。一寸先も見えず、いくら時間が経過してもまったく見えない暗がりでした。漆黒とは、こういうことを言うんだな、、、と、その時に感じました。その二度の経験では、闇と同時に無音も体験しました。
故に、朝焼けはより美しく、闇から光への移行する時間を心底有難く思ったものです。
あちらこちらに設置されるイルミネーションは、私の中では闇の光とは言い難いものです。
初心に戻り想像するならば、幼い頃読んだ「ろうそくと人魚」の童話の「人魚が海に面した山の神社に灯す一本のろうそく」が、私の闇に灯す蝋燭です。
今年は、宮島の弥山の消えずの灯のお堂に蝋燭を一本納めました。冬至に向かう一カ月を世々に引き継がれていく灯の尊さと重ね合わせて過ごしたいものです。
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パリのクリスマスの何が良いか、、、というと、都市であっても、闇の光の程好い加減に居心地の良さを感じるからです。
日本の都市は、光で溢れています。東日本大震災があっても、夜の光の希求度は、日本人の傾向であるように思います。
よほど、電気の無い時代に、寂しく暗い夜を過ごした民族なのだろう。。。と思うのです。
寂しく暗い夜の時代が長かった故に、光を得た時点で、その光を満たすべく眠っていた闇の不安感が意識に上がってきたから、その不安を満たすべく明るさを必要するのかもしれない、と勝手な解釈をしています。
闇に浮かびあがる光が強い必要がどこにあるか、、、というと、やはり、DNAに潜んでいる闇に対する人の不安度なのかな、と思うわけです。確かに闇に対する極度な不安感は、私にもありました。
強烈な漆黒の闇といえば、ヒマラヤの麓の山小屋に泊まった時に経験し、二度目はスロベニアの村でした。夜12時になると教会の塔の明かりが消されます。そうなると漆黒の闇が部屋に広がります。一寸先も見えず、いくら時間が経過してもまったく見えない暗がりでした。漆黒とは、こういうことを言うんだな、、、と、その時に感じました。その二度の経験では、闇と同時に無音も体験しました。
故に、朝焼けはより美しく、闇から光への移行する時間を心底有難く思ったものです。
あちらこちらに設置されるイルミネーションは、私の中では闇の光とは言い難いものです。
初心に戻り想像するならば、幼い頃読んだ「ろうそくと人魚」の童話の「人魚が海に面した山の神社に灯す一本のろうそく」が、私の闇に灯す蝋燭です。
今年は、宮島の弥山の消えずの灯のお堂に蝋燭を一本納めました。冬至に向かう一カ月を世々に引き継がれていく灯の尊さと重ね合わせて過ごしたいものです。
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