■メイン写真
岩村城の本丸埋門。二の丸から本丸へ入る門で、裏門にあたる。
「野面積み・打ち込みハギ・切込ハギ」という、石垣の3つの造り方が一度に見られる珍しい場所だ。
■今回のコース
12日 登城口駐車場→岩村城址→水晶山→出丸駐車場⇒第一駐車場→(城下町めぐり1)→
第一駐車場⇒岩村山荘[泊]
13日 岩村山荘⇒第三駐車場→(城下町めぐり2)→第三駐車場⇒明知駅⇒大正村駐車場→
明知城址→大正村駐車場
「のんびり山歩の会」では珍しい宿泊企画。
日本三大山城のひとつであり、女城主の城として知られる岩村城址と、
雨のため当初の予定を少し変更して訪れた明知城址。
ともに古い建物が数多く残る城下町をセットで歩いてきた。
ちょうど城下町では町家に伝わる「ひな人形」を展示しており、歴史と文化に触れた2日間となった。
まずは岩村城と女城主について。ちょっと長くなるが、HPの説明まとめてみた。
1185年、源頼朝の家臣・加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男・景朝が岩村城を築き、
遠山氏を称した。
時は過ぎ、戦国時代末期、城主の遠山景任が病没。養子として迎えていた織田信長の五男・
御坊丸が幼少であったため、その夫人(織田信長の叔母)が実質的な城主として統治した。
いわゆるおんな城主「おつやの方」だ。
1572年、武田信玄の家来・秋山虎繁が侵攻してきた。おんな城主は信長の支援を待って籠城。
しかし信長は、長島の一揆などの対応で来れない。籠城3ヶ月。食糧も不足 してきたところ、
虎繁からおんな城主を妻とすることを条件に、無血開城を申し入れてきた。
おんな城主は苦渋の末、城兵や領民の命を守るため敵将との結婚を決意し、開城した。
その後の数年間、おんな城主は虎繁とともに、城の普請や城下町の守備に勤しみ、平和な日々を
過ごした。
しかし、御坊丸は信玄のもとへ人質として送られてしまい、岩村城も乗っ取られてしまったことに
信長は黙っていない。1575年、長篠の戦いで武田勝頼軍に勝利して武田と織田の勢力が逆転し、
信長の嫡男・織田信忠が攻め入った。半年に及ぶ籠城の末、信長からの条件を呑み、開城。
その条件は、領民を守り、おんな城主と虎繁の命を守るという約束だったが、信長はこれを
反故にし、夫妻は磔刑に処された。(自分の叔母を処刑したのか!)
スタートは登城口にある駐車場。
岩村城は明治になってから解体されたため、建物は残っていない。
ここにある太鼓櫓、表御門、平重門は、「ふるさと創生」の1億円で平成2年に復元されたものだ。
登城口から、石畳の道を行く。岩村城址は日本三大山城の中では最も標高が高い。
タマゴケ発見!
かなり立派な石垣が出てきた。
霧ヶ井。岩村城の別名は「霧ヶ城」だが、「敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に
投じると、たちまちに霧に被われて城を守った」そうだ。
六段壁。本丸の北東面にあり、雛壇状に六段になった石垣。
江戸時代後半に築かれ、背面の高石垣の崩落を防ぐために補強してできた石垣だという。
本丸に到着。なるほど眺めの良い高台だ。
石段に囲まれたところに建屋があったそうだ。
昼食後は、水晶山へ。出丸駐車場への車道を少し下り、急斜面に取りつく。
尾根道はずっと植林の中。
途中で、新しい作業林道が出てきた。
水晶山の山頂も植林の中だ。
岩村ダムに下山する予定だったが、道が工事中で通行止めとなっており、元の道を戻る。
下山後、城下町の一部を観光した。なまこ壁の道。
城下町では、町家のあちこちでひな飾りが展示中。年代物のひな壇もあった。
木村邸。
江戸時代中期から末期に栄えた問屋。藩が財政難になるたびに、御用金を調達して危機を救った。
藩主出入りの玄関、表通りに面した武者窓、当時の町家の様相を残す。
この日は岩村山荘に宿泊。外観は、むしろこちらがお城のよう。
お風呂も食事も非常に良かった。
翌日は朝から強い雨。三森山への登山を断念する。
城下町の、昨日見切れなかった残りを歩く。昨日とはうって変わって寒い。
カステラと和菓子の松浦軒。松浦家は、もと藩主の御用菓子司で、寛政年間に、藩医師の
神谷雲沢が長崎でカステラの製法を学び伝えたという。
ここは、NHKの朝ドラ「半分、青い」のロケで、「ふくろう商店街」として使われた。
水野薬局の古い看板。
岩村醸造。ブランド「女城主」はスキッとした味わいで美味い。
店の中には、蔵と店舗を結ぶトロッコ軌道がある。
仕込み水も湧いており、しゃれた中庭にはセリバオウレンが咲いていた。
勝川家。
江戸末期に台頭した商家で、屋号は「松屋」。江戸後期の建物が残る。
奥に回ると、米蔵がある。大正時代に建てられた、ガラスを多く使った迎賓棟も味わい深かった。
午後は明智駅へ移動。明知鉄道の単行ディーゼル車に気分が上がる。
昼食のあとは大正村を散歩する。石畳みの大正路地を行く。雨はやんだが、寒い。
大正ロマン館は時間の関係で入場せず。
旧三宅家(恵那市指定文化財)。
もとは明智町馬木地区にあり、平成3年に明智町が寄贈を受け、翌年ここに移築復元された。
三宅家は馬木村の有力な農家で、江戸時代の初めに旗本・明知遠山家に仕えていたが、
1664年に帰農し、馬木村に居を定めた。
この建屋は1688年に普請された。内部は養蚕のために板の間が拡張され、三間取り(広間型)から
四間取り(田の字型)に改造された。
現在の茅葺屋根の一部は、京都の美山から職人を呼んで葺き替えたそうだ。
予定にはなかったが、そのまま明知城址をめざすことに。道標が充実しているので迷うこともない。
出丸に登りつけば、丸い穴が開いた「柱石」。陣旗を立てる基礎(旗竿石)か、手水鉢か、諸説ある。
本丸跡。
明知城は、別名白鷹城といい、1247年に明知遠山氏の始祖、景重が本拠地とし、戦国時代に
現在の本格的な山城が構えられた。
山頂の二つの曲輪と通称「出丸」を中心に、東西400m・南北300mある。主要な曲輪を囲む横堀、
堀切、畝状竪堀群が発達している。
おっ、ショウジョウバカマが咲いている。ここにも春が来ていた。
期せずして、岩村・明知の2つの山城を巡ることになった今回の山旅。
戦国、江戸、大正と、歴史を思いっきり感じられた。
岩村城の本丸埋門。二の丸から本丸へ入る門で、裏門にあたる。
「野面積み・打ち込みハギ・切込ハギ」という、石垣の3つの造り方が一度に見られる珍しい場所だ。
■今回のコース
12日 登城口駐車場→岩村城址→水晶山→出丸駐車場⇒第一駐車場→(城下町めぐり1)→
第一駐車場⇒岩村山荘[泊]
13日 岩村山荘⇒第三駐車場→(城下町めぐり2)→第三駐車場⇒明知駅⇒大正村駐車場→
明知城址→大正村駐車場
「のんびり山歩の会」では珍しい宿泊企画。
日本三大山城のひとつであり、女城主の城として知られる岩村城址と、
雨のため当初の予定を少し変更して訪れた明知城址。
ともに古い建物が数多く残る城下町をセットで歩いてきた。
ちょうど城下町では町家に伝わる「ひな人形」を展示しており、歴史と文化に触れた2日間となった。
まずは岩村城と女城主について。ちょっと長くなるが、HPの説明まとめてみた。
1185年、源頼朝の家臣・加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男・景朝が岩村城を築き、
遠山氏を称した。
時は過ぎ、戦国時代末期、城主の遠山景任が病没。養子として迎えていた織田信長の五男・
御坊丸が幼少であったため、その夫人(織田信長の叔母)が実質的な城主として統治した。
いわゆるおんな城主「おつやの方」だ。
1572年、武田信玄の家来・秋山虎繁が侵攻してきた。おんな城主は信長の支援を待って籠城。
しかし信長は、長島の一揆などの対応で来れない。籠城3ヶ月。食糧も不足 してきたところ、
虎繁からおんな城主を妻とすることを条件に、無血開城を申し入れてきた。
おんな城主は苦渋の末、城兵や領民の命を守るため敵将との結婚を決意し、開城した。
その後の数年間、おんな城主は虎繁とともに、城の普請や城下町の守備に勤しみ、平和な日々を
過ごした。
しかし、御坊丸は信玄のもとへ人質として送られてしまい、岩村城も乗っ取られてしまったことに
信長は黙っていない。1575年、長篠の戦いで武田勝頼軍に勝利して武田と織田の勢力が逆転し、
信長の嫡男・織田信忠が攻め入った。半年に及ぶ籠城の末、信長からの条件を呑み、開城。
その条件は、領民を守り、おんな城主と虎繁の命を守るという約束だったが、信長はこれを
反故にし、夫妻は磔刑に処された。(自分の叔母を処刑したのか!)
スタートは登城口にある駐車場。
岩村城は明治になってから解体されたため、建物は残っていない。
ここにある太鼓櫓、表御門、平重門は、「ふるさと創生」の1億円で平成2年に復元されたものだ。
登城口から、石畳の道を行く。岩村城址は日本三大山城の中では最も標高が高い。
タマゴケ発見!
かなり立派な石垣が出てきた。
霧ヶ井。岩村城の別名は「霧ヶ城」だが、「敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に
投じると、たちまちに霧に被われて城を守った」そうだ。
六段壁。本丸の北東面にあり、雛壇状に六段になった石垣。
江戸時代後半に築かれ、背面の高石垣の崩落を防ぐために補強してできた石垣だという。
本丸に到着。なるほど眺めの良い高台だ。
石段に囲まれたところに建屋があったそうだ。
昼食後は、水晶山へ。出丸駐車場への車道を少し下り、急斜面に取りつく。
尾根道はずっと植林の中。
途中で、新しい作業林道が出てきた。
水晶山の山頂も植林の中だ。
岩村ダムに下山する予定だったが、道が工事中で通行止めとなっており、元の道を戻る。
下山後、城下町の一部を観光した。なまこ壁の道。
城下町では、町家のあちこちでひな飾りが展示中。年代物のひな壇もあった。
木村邸。
江戸時代中期から末期に栄えた問屋。藩が財政難になるたびに、御用金を調達して危機を救った。
藩主出入りの玄関、表通りに面した武者窓、当時の町家の様相を残す。
この日は岩村山荘に宿泊。外観は、むしろこちらがお城のよう。
お風呂も食事も非常に良かった。
翌日は朝から強い雨。三森山への登山を断念する。
城下町の、昨日見切れなかった残りを歩く。昨日とはうって変わって寒い。
カステラと和菓子の松浦軒。松浦家は、もと藩主の御用菓子司で、寛政年間に、藩医師の
神谷雲沢が長崎でカステラの製法を学び伝えたという。
ここは、NHKの朝ドラ「半分、青い」のロケで、「ふくろう商店街」として使われた。
水野薬局の古い看板。
岩村醸造。ブランド「女城主」はスキッとした味わいで美味い。
店の中には、蔵と店舗を結ぶトロッコ軌道がある。
仕込み水も湧いており、しゃれた中庭にはセリバオウレンが咲いていた。
勝川家。
江戸末期に台頭した商家で、屋号は「松屋」。江戸後期の建物が残る。
奥に回ると、米蔵がある。大正時代に建てられた、ガラスを多く使った迎賓棟も味わい深かった。
午後は明智駅へ移動。明知鉄道の単行ディーゼル車に気分が上がる。
昼食のあとは大正村を散歩する。石畳みの大正路地を行く。雨はやんだが、寒い。
大正ロマン館は時間の関係で入場せず。
旧三宅家(恵那市指定文化財)。
もとは明智町馬木地区にあり、平成3年に明智町が寄贈を受け、翌年ここに移築復元された。
三宅家は馬木村の有力な農家で、江戸時代の初めに旗本・明知遠山家に仕えていたが、
1664年に帰農し、馬木村に居を定めた。
この建屋は1688年に普請された。内部は養蚕のために板の間が拡張され、三間取り(広間型)から
四間取り(田の字型)に改造された。
現在の茅葺屋根の一部は、京都の美山から職人を呼んで葺き替えたそうだ。
予定にはなかったが、そのまま明知城址をめざすことに。道標が充実しているので迷うこともない。
出丸に登りつけば、丸い穴が開いた「柱石」。陣旗を立てる基礎(旗竿石)か、手水鉢か、諸説ある。
本丸跡。
明知城は、別名白鷹城といい、1247年に明知遠山氏の始祖、景重が本拠地とし、戦国時代に
現在の本格的な山城が構えられた。
山頂の二つの曲輪と通称「出丸」を中心に、東西400m・南北300mある。主要な曲輪を囲む横堀、
堀切、畝状竪堀群が発達している。
おっ、ショウジョウバカマが咲いている。ここにも春が来ていた。
期せずして、岩村・明知の2つの山城を巡ることになった今回の山旅。
戦国、江戸、大正と、歴史を思いっきり感じられた。