田口光久 死去 64歳
この前、うちの姉に高校時代の話をした。
「そーいえば、ビートルズに「When I'm SixtyFour」って曲があるじゃん。
その歌詞をサッカー部の部室の壁にマジックでデカく書いてさ・・・
“64歳になってもまだ友達でいられるかな” とか書いたんだよ。
何のことはない、その年になっちゃったもんね・・・はやいなぁ」
そう、田口は同級生だ。(同じ学年というだけだけど^^)
向こうは、日本代表のゴールキーパーだ。
同級生の誇りだ。
左奥から~藤島信雄、永井良和、斉藤和夫、落合弘、奥寺康彦、碓井博行、
石井茂巳、清雲栄純。西野朗、田口光久、釜本邦茂
日本0ー0韓国 ワールドカップ予選1977年 3月26日 国立競技場
77年だから、21か22歳だ。
田口の前がレジェンド釜本邦茂。
俺なんかペーペーで、かまもっさんのカバン持ちだった、とか言ってたなぁ。
後ろが、もひとりの同学年の誇り、西野 朗だ。
この頃の田口はなかなかの男前で、
甘い甘いフェイスの西野と違って野性味にあふれ、けっこうモテたはずだ。
まあ、西野とはモテの次元が違っただろうが^^
雄姿をもう一枚 ↓↓↓
※ デカい写真は各自でググってちょ
1984年1月21日に行われた報知新聞社制定ベストイレブン
後列左~
GK・田口光久(三菱重工)、都並敏史(読売クラブ)、越田剛史(日産)、
MF・ジョージ与那城(与那城ジョージ、読売クラブ)、柱谷幸一(日産)、
前列左~
DF・加藤久(読売クラブ)、FW・木村和司(日産)、金田喜稔(日産)
ラモス(読売クラブ)、戸塚哲也(読売クラブ)
読売と日産のみ。田口以外は!
田口は凄かったのだ。
反応の速さ、ファイティングスピリッツ、度胸。
忘れないぞ、同級生!
もひとつの顔も ↓↓↓
とんねるずの生ダラの頃でしょう。
田口は「めーらん大王」と言われていた^^
ま、見ての通りラーメンの食い過ぎから来ている。まんまじゃん
この後もっと太り、松村と区別がつかなくなる。。。
木梨は一時期、チーム名を「ジーコさんず」としていたが、
たぶん、ジーコの奥さんからクレームが入ったと思われ、
ウチの旦那の名前で遊ぶな!みたいな(想像ですが)
ジーコさんず、残念ながらその後使用しなくなった。
う~ん、大好きだったのに、ジーコさんず
当時、人気絶頂のとんねるずに呼ばれ続けたのは、
田口に笑いのセンスがあったからで、ワタシもゲラゲラ笑っていた記憶がある。
バラエティーの先駆者でもあったのだ。
さよなら同級生。
田口よ安らかに・・・