注文していたCDが届いた。David Sylvian, A Victim of Stars 1982-2012である。
デイヴィッド・シルヴィアンといえば、最近は自らのレーベルであるサマディ・サウンドから、非常に美しく、素晴らしい、それでいて前衛的で、音楽の可能性と不可能性を追求するような作品を発表し続けているが、今回はジャパン時代から長らく所属していたヴァージンから発売された。2枚組で、一種のベスト盤なのであろうが、2枚目の後半ではBlemishなど、サマディ・サウンドから発売されたアルバムからも選ばれている。
ジャパンとイエロー・マジック・オーケストラが活動していた頃から、シルヴィアンと坂本龍一との交流は広く知られているところであるが、その二人の曲も収録されている。今聴くと、どちらもプロフェット5を愛用していたからなのか、お互いの交流の産物からなのか、シンセサイザーの音がよく似ている(いや、共通している)ことがわかる。勿論、二人が共演した曲では坂本龍一の演奏が全面的に使用されているのであるが、そうでない場合でも似ている。例えば、ジャパンの最後にして最高傑作である「錻力の太鼓」と坂本龍一の1980年代のソロ・アルバムを聴き比べてもらいたい。そして、あの「戦場のメリー・クリスマス」にシルヴィアンの歌を乗せたForbidden Coloursは、やはりこの人の声と歌い方だから曲に合うのであろう。
シルヴィアンはジャパンのヴォーカリスト(兼ギタリスト)としてデビューした。ドイツのアリオラから発売された最初の2作では、いかにもグラム・ロック風のアイドルバンドというサウンドであったし、日本でのみ人気が高かったのも理解できる。しかし、既にレゲエなども取り入れていて、このバンドの方向性が示されていた。3枚目で大きく変化し、シルヴィアンの歌唱法まで大きく変わった。4枚目の「孤独な影」(これが坂本龍一との初共演作である)では後のニュー・ロマンティックスの萌芽あるいは蕾というべきサウンドを展開したが、「錻力の太鼓」ではジャパンの個性が全面的に押し出された(イエロー・マジック・オーケストラ、とくに坂本龍一からの影響も非常に強いと思われる)。彼らはアイドルであることをやめ、アーティストとしての道をたどっていたから(Oil on Campasの最初の曲を聴いてみてほしい)、解散は必然であった。シルヴィアン、ジャンセン、バルビエリ、そして先頃亡くなったカーンの4人が、アーティストとしての大きな一歩を進めたことが示されたのである。
その後のシルヴィアンは、やろうと思えばスターへの道をたどったかもしれない。しかし、そうしなかった。1980年代の前半、イギリスのニュー・ロマンティックスの大流行とその後の経緯を見ると、それは正解であったと思う。もし、彼がスターとして大ヒットを飛ばしていたら、今頃はせいぜい懐メロ歌手止まりであろう。彼の個性は発揮されなかったに違いない。
ソロの第1作であるBrilliant Treesは、ダブルベースやトランペットなどを巧みに使ったサウンドであった。彼の歌も個性と深みを増したし、何よりも音楽での成長と発展を止めなかった。こういう音楽家は意外と少ない。私がすぐに思い浮かべるのはマイルス・デイヴィスである。このジャズの帝王とはまるで音楽性から何からが違うが、シルヴィアンのソロ・アルバムなどを聴いていると、様々な方向に目を向けていながらも、可能性を広げ、限界へ進み続けているように感じられる。早くも第2作のGone to Earthの2枚目で、イーノを超えるのではないかと思われるアンビエントの作品を残した。ヴァージンを離れた頃のCamphorが、シルヴィアンの発展と方向性をよく示している。また、彼の作品ではあまり取り上げられることがなく、過小評価されているが、武満徹も評価していたというインスタレーションでの音楽を基にしたApproaching Silenceも、決して忘れてはならない。このアルバムを聴かなければ、サマディ・サウンドでの彼の諸作品も理解できないであろう。
今回のA Victim of Stars 1982-2012は、Camphorと異なり、シルヴィアンがどこまで主体的に関わったのかがよくわからない。そのためか、ベスト盤止まりであるという点は惜しまれる。しかし、聴き通していけば、彼の成長と発展がわかるものと思われる。但し、サマディ・サウンドでのソロであるBlemish、When Loud Weather Buffeted NAOSHIMA、Manafon、そしてDied in the Woolの全曲を聴くことが前提である(Nine Horsesの2枚も含めておこう)。私が期待するのは、Manafonに続く完全な新作である。
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