ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2007年9月4日、日田市を歩く(6)

2014年03月31日 00時00分58秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 

 (以下は、第247回として2008年1月15日に掲載したもので、一部を修正しました。)

 花月川は、自宅にある地図をみると、三隅川(筑後川)の支流であり、サテライト日田建設予定地の近くを流れています。光岡駅の南側に流れる川もそうです。さらに遡ると源流に行ける訳ですが、地図で見る限りは日田市の東部、中津市(旧山国町の部分)に近い場所のようです。

 コミュニティバスのバス停が公園にあり、この公園の名前がわかりました。

 右側に「御幸橋」とあるのは、次のバス停の名前でもあり、一新橋の次の橋(下流に向かって)の名前でもあります。小さな字で読みにくいのですが、時刻表を見ても、非常に本数が少ないことがわかります。かなり道幅が狭いので、相当な小型のバスではないでしょうか。そうすると、一日に何人のお客を運べるのか、 少々疑問も湧いてきます。私がこのあたりを歩いている時、ついにバスを見ることはできずに終わりました。

 バス停から少し離れて右側、クンチョウ酒造の建物に沿うようにして、上の絵図が掲げられています。

 このあたりは、たしかに大分県の中でも特別な味わいがあります。大分市に住んでいる時に、もっと日田の街並みを歩けばよかった、と思ってはいるのですが、大分市から90キロメートル以上も離れており、公共交通機関で行くとなるとごく僅かな本数の特急列車くらいしか利用しうるものがないので、やはり二の足を踏みました。自家用車で行くにしても、大分自動車道の通行料金などを考えると、そうそう何度も行けるものではない、ということになりかねなかったのでした。しかも、このあたりは少しばかり車で走りにくいところでもあります。もし、私がサテライト日田問題に取り組んでいなければ、日田市の中心部に行く機会はほとんどなかったかもしれ ません。

 集中講義の中休みの日を使えば、日田には行けます。しかし、2004年は天候に恵まれず、2005年は大分大学時代のゼミの卒業生たちと会ったこともあって日田に行く時間がなく、2006年は日田に行く計画を立てていたのですが体調が悪かったので柳川市で止めておきました(日本税法学会九州北部支部の研究会に参加したことも理由としてあげられますが、次の日に行こうと思えば行けました)。それで、ようやく、2007年に行くことができたのでした。ただ、8月の福岡大学での集中講義の時期には時間的な余裕が全くなかったので、9月の西南学院大学での集中講義初日の前の日に行きました。

 集中講義と言えば、2008年も西南学院大学で担当させていただきました。その時に、また日田に行こうか、などと考えていました(実際には行かなかったのですが)。

 2012年までに私のホームページを御覧いただいた方は「森稔樹と言えば九州での集中講義」などというイマージュをお持ちであったかもしれません。たしかにそのように思われても仕方がないですし、実のところ、福岡での集中講義を楽しみにしているところがあります。しかし、私が集中講義を担当し始めたのは2003年、熊本県立大学総合管理学部の「財政法」であり、大学の教員としての生活を始めてから6年後、大分大学教育福祉科学部助教授2年目にして最後の年度のことなのです。そもそも、私は、大学院生時代に非常勤講師を務めた経験がなく、さらに大分大学に就職してからの3年間、非常勤講師を務めたことがなかったのです。

一新橋です。右側が豆田、左側は丸山で、月隈公園のほうに行けます。川に沿って進むと慈眼寺公園に行けます。

 再び、豆田の通りです。南に向かっているところを写しています。車道の真ん中を歩いていますが、そんなことができるのもこのような街並みであるからです。私の幼少時から小学生時代にかけてであれば、このような道で遊んでいる子どもはたくさんいたものでした。

 旅館がありました。これを見て思い出したのですが、もう20年近く、こうした造りの旅館に宿泊したことがありません(大学のゼミ合宿というような、我々にとっての公用の場合を除きます。もっとも、大分大学時代の合宿はホテルのようなところばかりでしたし、大東文化大学ではゼミ合宿を一回しか行っておらず、その一回は黒磯付近の貸別荘に宿泊しました)。出張の際はビジネスホテルに泊まることが多いのです。今回も、福岡市内某所のビジネスホテルに宿泊していました。

 この旅館は伯亭若の屋といい、明治初期に創業したそうです。皇族の方々をはじめ、川端康成、日野葦平、大佛次郎などの文人も利用したことがある、と言います。やはり、一度はこういうところに宿泊したいものです(ただ、食事の量が問題です。食べきれないほどにたくさんの料理を出すところもありますが、そういうのが苦手です)。

 今では珍しくなりつつあるホーローの看板です。かなり朽ちてはいますが、字は十分に判読可能です。木の壁にはピッタリです。

 1970年代までは、ホーローの看板が川崎市でも至るところにありました。ボンカレー、オロナミンC(何故か巨人の星、または天才バカボンの漫画も描かれていました)、オロナインH軟膏、アース製薬の蚊取り線香、どこかの布団屋さん、などの広告が中心です。東急溝の口駅から少し離れた菓子屋さん(現在はコンビニエンスストア)には、幻 (しかも「超」が付くほど)の清涼飲料であるミスタービブ(もう一度飲んでみたいのですが、ほんの数年で消えてしまいました)の看板がありました。これまた幻のスナック菓子であるトレッカの看板は、川崎市内でも所々で見られました。写真にあるように、どこかの民家の木の壁にホーローの看板が貼られていたりしたものです。

 しかし、1980年代にこういう看板が急激に減少しました。今では見かけることのほうが珍しいくらいです。 それでも、農村部の街道筋のようなところでは時折見かけますし、私が知っている限りでは小平市にある西武多摩湖線の一橋学園駅の近くでも見られます。

再び豆田の通りです。

 上町通りというバス停です。先ほどのホーローの看板も見えます。ここでバスを待ち、日田駅のほうへ出ようと思っています。まだ十分に歩けますが、別の街へ行き、歩き回りたいと考えていましたので、暑い中で体力を温存するという意味で、バスに乗ることにしました。

 日田市には日田バス(西鉄系)の路線もあるのですが、この豆田のあたりは大分交通系の大交北部バスが通っています。以前は中津観光バス(これも大分交通系)のバスでした。日田から守実温泉までのバス路線があります。以前は日田バスセンターから中津駅までのバス路線がありましたが、今はどうでしょうか。

 大分交通系の路線バスに乗るのは何年ぶりか、というところです。大分交通と言えば、大分空港から大分駅までの特急バスにばかり乗っていて、普通の路線バスを利用したことはあまりありません。私が住んでいた大字宮崎は、大分交通系ではなく、大分バスの路線エリアでした。

 それにしても、京浜地区(東京都23区地域、川崎市、横浜市)のバス停は親切です。たいてい、料金が掲示されています(少なくとも、都営バス、東急バス、川崎市バス、横浜市バスはそうです)。京浜地区は、大部分が均一料金ですが、バス停に170円(都営バスの学バス)、180円(新宿駅から都庁までのシャトルバス)、200円(都営バス、川崎市内のバス)または210円(東京都23区内の民営バス、横浜市内のバス)、などと表示されています。また、路線図などが書かれているバス停も多いのです。横浜市都筑区の東急バスのバス停には、終点までの全てのバス停が案内として表示されているところもあります。運転区間の距離から考えると料金は高いのですが、整理券を取る必要がないのもありがたい話です。京浜地区で生まれ育ったので、今も整理券方式が苦手です。そのためか、整理券方式が乗客のサービスなのか、疑ってしまいます。

 九州地方のバス停も様々ですが、概して大分県内のバス停は不案内です。京浜地区以外の大部分の地域では区間制料金のはずですが、一体いくらくらいかかるのか、バスに乗って目的のバス停で降りてみるまでわかりません。このバス停から出るバスがどのようなところを通るのかについても、ほとんど案内らしい案内がないのです(バスセンターのような場所は別ですが)。これでは乗る気もしません。何処を通るかもわからなければ、いくら払うことになるのかもわからないのですから。公共交通機関の衰退の原因の一つが、この不案内なバス停にあるような気がしてなりません。国鉄の末期のように、衰退するには衰退するだけの理由があるということでしょう。

 またまた豆田の通りです。時折、固まっているかのように何台かの車が通り、場合によっては離合のようなことをやっています。 小型の乗用車であれば、充分に余裕を持って通ることができるはずですが、それでも離合のようなことをやっています。私を含めて、自動車の運転技術が低下しているのかもしれません。今の乗用車の大部分はドアミラーですが、1970年代までは一般的だったフェンダーミラーであれば、わざわざ離合のようなことをやらなくともらくらくと通行できるでしょう。

 バス停で待っていたら、こんな虫が止まっていました。胴体は緑色、羽は黒色という、おそらくはトンボの一種ではないかと思うのですが、よくわかりません。御教示いただける方がおられるならば幸いです。

 トンボと言えば、京浜地区ではすっかり見かけなくなりました。しかし、九州では、たとえば福岡市中央区の街中でも飛んでいるのを見かけることがあります。さすがに天神では見かけないのですが、天神から少し離れた所、たとえば薬院駅周辺では見かけます。私が薬院駅周辺を歩いていた時には、駅の近くを流れる川の付近で赤トンボが何匹も飛び回っていました。大分市でも、とくに大分川の河原では群がるように飛んでいることがあります。

 それにしても、こんなところでこんな独特の美しさのトンボにお目にかかるとは。記憶に誤りがなければ、この時まで見たことがなかった種類のものでした。

 

(完/Ende/Fin)

 


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