ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

世田谷線に乗って、豪徳寺へ行ってみた(その1)

2014年09月21日 11時31分28秒 | まち歩き

 休日のためにラッシュ時並みの混雑となった都電荒川線を、我々は三ノ輪橋から早稲田まで乗り通しました。そして、早稲田大学を通り、地下鉄早稲田駅から東西線に乗り、九段下で半蔵門線に乗り換え、帰宅しようとしていました。しかし、都電荒川線について何となく消化不良のような感を覚えた我々は、どちらからともなく、三軒茶屋で降りて世田谷線に乗ろうと言い出しました。結婚して間もなく、三軒茶屋から下高井戸まで同線を乗り通しており、まち歩きの満足感を覚えたからです。要するに、妻も私も世田谷線のほうを好んでいる、という訳です。

 そして、私もまだ行ったことがない豪徳寺へ行こう、ということで意見がまとまりました。

 豪徳寺と言えば、小田急小田原線に豪徳寺という駅がありますので、そこで下車するという方法もあります。しかし、実際には世田谷線にある宮の坂という駅のほうが近いのです。田園都市線沿線に住んでいる者にとっては、三軒茶屋から世田谷線に乗り、宮の坂で下車して歩くほうが楽です。世田谷線を楽しむこともできます。

 我々は、三軒茶屋から世田谷線に乗り、宮の坂で降りました。下高井戸方面ホームのそばには、江ノ島電鉄に譲渡されて活躍した80形が保存されています。踏切を渡り、しばらく歩くと、山門が見える通りに出ます。

 大𧮾山豪徳寺は、元々臨済宗の寺院でしたが、現在は曹洞宗の寺院です。この辺りに世田谷城があったのですが、1480年に創建されたようです。その後、江戸時代に入って1633年に彦根藩主の井伊直孝により整備され、井伊家の菩提寺となります。境内には井伊家代々の墓が設けられています。

 井伊家と言えば井伊直弼、という訳でもないでしょうが、日本史の教科書で必ず登場するのが彼です。1815(文化12)年に彦根藩主井伊直中の十四男として生まれた直弼は、1858(安政5)年、幕府の大老に就任します。その前にペリー来航に際して開国論を唱えており、大老に就任して程なく、日米修好通商条約の調印を強行します。これが水戸派や攘夷派などの反発を招いたため、同年から反対派を厳しく弾圧します。世に言う安政の大獄です。このような政策が採られると反動も大きいのが常であり、1860(安政7)年、直弼は、水戸浪士らにより、江戸城桜田門外にて暗殺されます。

 なお、この一連の事件により、水戸市と彦根市が敵対するようになり、両市が和解したのは1968(昭和43)年になってからのことであるそうです。 

さて、いよいよ本殿や仏殿などを見て回ることとしましょう。

 

 

上の写真をよく見てください。そして、下の写真です。

 豪徳寺には、至る所に猫がいます(もっとも、本物の猫ではないのですが)。

 ここは、招き猫伝説の発祥地としても有名です。もっとも、発祥地として知られているのは豪徳寺だけでなく、都内などに何カ所かあるのですが、最も有名であり、現在は日本を代表するゆるキャラの一つである彦根市のひこにゃんにまでつながるというおまけまでついたのが、世田谷区の豪徳寺なのです。

 井伊直孝が鷹狩りの帰途、この辺りを通りかかると、猫が右手を挙げて直孝を招きました。その通りに彼が寺に入り、住職より接待を受けます。その間に天候が悪くなり、雷雨となりました。つまり、猫が招いてくれたおかげで直孝は雷雨に見舞われて濡れたりしなくて済んだ、という訳です。豪徳寺が井伊家の菩提寺となったきっかけにもなりましたし、この寺が豪徳寺と名乗ることにもつながりました(豪徳は井伊直孝の法名からとられています)。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 近所のコンビニが閉店する | トップ | 世田谷線に乗って、豪徳寺へ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

まち歩き」カテゴリの最新記事