(以下は、「待合室」第528回として、2013年6月10日から17日まで掲載したものです。なお、一部手を加えております。)
前々回にも記しましたが、私は、福岡県、大分県の鉄道路線(特殊なものを除く)を全て利用しました。もっとも、1997年4月から2004年3月まで大分市に住んでいたにもかかわらず、両県の鉄道路線完乗を果たすことはできず、2004年から2012年までの夏季休暇中に行っていた集中講義の期間を利用して、ようやく成し遂げたのです。
しかも、神奈川県出身者であるにもかかわらず、神奈川県や東京都などには未利用路線や未利用区間が残っていることを、ここで白状しておきましょう。何しろ、まずは川崎市出身者であるにもかかわらず、JR鶴見線の鶴見~浜川崎を除く全区間を利用したことがありません。同線の浜川崎~扇町および武蔵白石~大川は川崎市内なのに。
また、京浜急行電鉄完乗や江ノ島電鉄完乗よりも、西日本鉄道、福岡市交通局(地下鉄)、長崎電気軌道、熊本電気鉄道、熊本市交通局(熊本市電)、鹿児島市交通局(鹿児島市電)、高千穂鉄道(残念ながら廃止されてしまいました)、肥薩おれんじ鉄道完乗のほうが早かったのです。
関東の大手私鉄では東武および京成に未利用区間が残っており(特に東武については利用区間のほうが少ない)、神奈川県内にはJR相模線(全線)、JR鶴見線(鶴見~浜川崎を除く全区間)、JR御殿場線〔松田~沼津(静岡県)〕、箱根登山鉄道(塔ノ沢~強羅)および伊豆箱根鉄道大雄山線(全線)が残っています。
以上のように、妻を初めとして周辺からは鉄道マニアだの何だのと言われる私でございますが、非常に中途半端であることをおわかりいただけたのではないでしょうか。とても「マニア」や「おたく」(嫌な言葉ですね。誰だ!? こんな言葉を流行らせたのは!??)などと言われるべき存在ではなく、中途半端なファンに過ぎないことが理解されるはずです。
ところで、完乗、すなわち完全乗車とは、一見してわかりやすいようでいて、実は非常に曖昧な概念です。鉄道であれバスであれ、年によって運行路線や形態などが異なります。『時刻表二万キロ』の著者である宮脇俊三氏が国鉄完乗を果たされたのは1977年のことですが、戦前または戦争中に廃止されてしまった路線は含まれないはずですし、貨物専用路線などは考慮の外に置かれるのも当然です。こうなると、文字通りの完乗を果たすことは、国土交通省(とくに旧運輸省)に勤務する方々でも難しく、よほど条件に恵まれた人でなければ不可能な話です。従って、或る年を基準として判断するしかありません。私の完乗はまさにそれでして、福岡県内および大分県内について、否、他都道府県についても、原則として21世紀に入ってから現在に至るまでの間に営業している鉄道路線を対象としていることを、ここでお断りしてきます。
さて、前々回および前回に取り上げた松浦鉄道西九州線の完乗により、福岡県および大分県に続き、佐賀県内の鉄道路線完乗を果たしました。しかし、長崎県には未利用の区間が残っています。これまでは西南学院大学での集中講義期間を利用できたのですが、それも2012年までとなりました。未来のことなどわかりません。何せ、未だ来たらずだから未来なのです。そうなれば、行き易い時に行っておくしかありません。
佐世保発の快速シーサイドライナー長崎行きに乗ると、早岐までの佐世保線内では各駅に停まりますが、大村線に入り、次のハウステンボス駅を出てから快速らしく走ります。大村線は諫早で終わり、そこからは長崎本線に入るのですが、私は諫早で降りました。
長崎本線を走る817系の長崎行きが停まっていました。2001年に電化された筑豊本線の折尾~桂川、および篠栗線のために製造されたと言えるのですが、長崎本線にも同時に投入されています。基本的な構造は815系と共通するのですが、815系の車内がロングシートであるのに対し、817系では転換クロスシートとなりました。よく、ロングシートよりもクロスシートのほうが乗り心地がよいとか豪華であるとか旅の心地がするなどと言われますが、実際には当たっていません。ロングシートのほうが快適である場合も少なくないのです(足、脚を考えてみてください。飛行機ではどうでしょうか?)。817系で転換クロスシートが採用されたのは、乗客数が必ずしも多くなく、しかも減少傾向にあるという実情を反映しているからでしょう。ラッシュ時の通勤通学輸送にクロスシートは適合しないのです。西鉄天神大牟田線で、平日朝のラッシュ時の特急が転換クロスシートの8000形などではなく、ロングシートの5000形で運行されることからも明らかです。
817系は、ワンマン運転を前提として設計されたこともあって、JR九州の電化路線に次々と投入されました。現在、日豊本線の小倉~延岡、および、福岡市営地下鉄への直通運転を行うために直流電化となっている筑肥線・唐津線(姪浜~西唐津)を除く各電化路線で活躍しています。
諫早駅に来た目的は、この駅から島原半島の東側を走る島原鉄道線です。1991年に起こった雲仙普賢岳の噴火と火砕流により、一部区間が運行不能となりましたが、見事に復活しました。しかし、21世紀になってから、この路線の南半分の区間である南島原~加津佐の廃止が検討され、結局、島原外港~加津佐が2008年4月1日に廃止されました。この区間には、災害からの復旧の際に高架化された駅もありました。
かつては国鉄のディーゼルカーに準じた設計の車両もあり、国鉄長崎本線に乗り入れたこともあったのですが、現在はキハ2500形と、その改良型であるキハ2550形のみとなっています。どちらもJR九州のキハ125形をベースとしたようなデザインとなっています。それもそのはずで、キハ125形は新潟鐵工所のNDCシリーズの一つであり、キハ2500形およびキハ2550形もNDCシリーズの一員なのです。
島原鉄道線が発着する諫早駅の0番線には、急行島原外港行きのキハ2505が停車しています。このディーゼルカーに乗り、終点の島原外港に向かいます。
キハ2500形の車体には、御覧のように子守唄から題材を得たと思われるイラストが描かれています。見れば見るほど、JR九州のキハ125形に似ていますし、同じような色でもあるのですが、キハ125形のほうが薄い色です。また、裾の青い線はキハ125形にはありません。
発車時刻は14時47分で、およそ1時間ほどの旅となります。途中、先発の下り普通列車を追い抜いたりすることはありません。停車駅は、本諫早、愛野、吾妻、西郷、神代町、多比良町、大三東(おおみさき)、島原、島鉄本社前、南島原、島原外港(終点)です。諫早駅から乗車した客は、私を含めて10人くらいでした。
諫早駅を出発すると、長崎本線は右へ(西へ)、島原鉄道線は左へ(東へ)分かれます。諫早城址の下にあるトンネルを抜けると本諫早駅で、ここまでしか走らない列車もあるほどの駅です。交換駅ともなっており、ここで交換しました。諫早市の中心地へは本諫早駅のほうが近く、市役所などの施設も見えます。途中、この急行ディーゼルカーは時速80キロメートルほども出すのですが、カーブが多いのですぐに減速します。交換駅の森山を通過した時にも徐行しました。吾妻で急行諫早行きと交換し、すぐに海が見えてきます。列車は既に雲仙市に入っており、目の前に見えるのは有明海です。熊本県の長洲町とを結ぶ有明フェリーに乗り換えることができる多比良町でも交換します。サッカーで有名な長崎県立国見高校は多比良町駅の近くにあるそうです。
次の島鉄湯江駅から島原市で、しばらくすると島原駅に着きます。ここで多くの客が降りてしまいます。市の中心部にあるためです。ここで降りなかったのですが、車窓からも駅の構内が広いことがわかります。かつては大きな駅であったことがうかがわれるのです。
交換不能の島鉄本社前、交換可能で車庫もある南島原と、駅間距離は短く、急行もゆっくり走ります。長崎県で最も東にある駅でもある南島原の構内には、救援車としての役割を果たす有蓋貨車も置かれています。ここで運転士が交替し、発車すると時速20キロメートル、30キロメートルの制限を受け、現在の終点である島原外港に到着します。
島原外港駅は、ここから加津佐までの区間が廃止されるまで有人駅でした。また、1990年代後半まで交換駅であったらしく、現在もその痕跡がよく残されています。右側の線路がそうで、ホームまで残っていますが、そちらに列車が到着することはありません。この先もしばらく線路が残されているので、一見すると現役の路線にも思えてきます。
実は、この駅も2008年に廃止される予定でした。島原市の要望により、残されたのです。
島原鉄道線は、一本の路線でありながら諫早~南島原の北目線と南島原~加津佐の南目線とに分けられることがありました。これは歴史的な経緯によるもので、北目線は元から島原鉄道の路線ですが、南目線は口之津鉄道の路線で、1943年に両社が合併したことで島原鉄道線となったのでした。島原半島の海岸線に沿う形でおよそ3分の2ほど周る路線でしたが、その線形が災いしたのでしょうか、南目線は大赤字に見舞われます。雲仙普賢岳の噴火と火砕流による被害も南目線に集中したようです。島原鉄道線の赤字の8割が南目線に集中していたため、21世紀に入ってから廃止の動きが出始めました。災害からの復旧より10年ほどでの廃止でしたが、やむをえないところでしょう。ただ、南目線の全区間が廃止されるとなると、島原外港発着の船便との接続がなくなり、不便になります。結果として、南目線の南島原~島原外港は残されました。
私が乗ったキハ2505は、普通列車の諫早行きとなり、折り返していきます。向こう側のホームと線路を見ると、一瞬、交換駅かと思われますが、ホームを見れば、現役の手前のホームとは全く様子が違いますので、廃止されたことがすぐにわかります。
ここから、私が宿泊している福岡市中央区の天神界隈に戻るには、この列車に乗って諫早に出てもよいのですが、私は島原港から島鉄高速船に乗って大牟田へ出ることとしています。二度と見る機会がないかもしれませんので、再び撮影しておきました。
また、動画も撮影しました。お時間がありましたら、御覧いただければ幸いです。
現在の島原外港駅です。改札口どころか駅舎もありませんが、これは2010年11月、運転士の失火による火災で駅舎が焼失したためであるそうです。ただ、残されている写真を見ると、手前の側(現在の出入口)ではない場所にあったようです。
駅を出るとほんの数分で島原外港に着きます。何故かオラレ島原という、大村競艇の場外舟券売場が2階にあります。私が訪れた時も営業しており、この種の施設らしい雰囲気を漂わせていました。パチンコ店などとも空気が違うことは、前を通っただけでわかります。
ここから熊本港行きと三池港行きの船が出ています。かつては三角港行きのフェリーもありました。熊本港行きは熊本フェリーと九州商船フェリー、三池港行きは島原鉄道の高速船です。私は、3100円で連絡乗車船券を買いました。島原鉄道の高速船、三池港から大牟田駅までの西鉄バス、そして大牟田から西鉄福岡までの天神大牟田線の運賃が含まれているというものです。次の便が17時35分発で、2時間近くも待つこととなりましたが、港の中で食事をするほど空腹でもなく、競艇も競馬も競輪もやらない者には場外舟券売場に入り難く(かつてサテライト日田問題に取り組んでいたというのに)、結局、周辺を歩くこととしました。
バスに乗って島原市の中心部へ行ってもよいのですが、高速船の出航時刻に間に合わなければ3100円が無駄となるし、事前に島原市のことをよく調べていなかったので、市街地に何があるのかわかりません。ともあれ歩いてみると、少し南に歩いた所にファミリーマートがあるので入りました。さらにフリーマーケットACB(アシベ)長崎諫早店があるので、入ってみました。見た瞬間はディスカウントショップなのかフリーマーケットなのかわからないような店で、私が小学生か中学生であった頃に浅草の公園六区にあった蚤の市を大きくして屋根を取り付けたかのような作りでした。フリーマーケットを直訳すれば蚤の市なのですが、まさにそのような店です。長崎県内には他に3店舗があり、福岡県にも6店舗があるとのことです。公式サイトによると、運営会社は島原市に本社を置き、島原かまぼこセンターというドライブインも経営しています。
ACBを出て、裏通りから島原外港駅に戻ってみました。急行諫早行きとなっているキハ2513が、発車時刻の到来を待っています。キハ2500形のラストナンバーがこの車両で、他にキハ2550形が3両在籍しています。ちなみに、キハ2512は事故に遭ったために廃車となっています。
駅の裏の建物が、どう見ても新しいため、かつての駅舎はその辺りにあったのではないか、などと思うのですが、よくわかりません。
撮影をしたりしてから、高速船に乗り込みます。名前の通り、かなり速いスピードで航行します。有明海を渡り、三池港に到着したのは18時16分でした。こちらの船着場は、島原港とは比較にならないほど小さく、周囲は工場ばかりです。接続の西鉄バスはまだ来ていなかったのですが、ほどなく到着しました。バスの乗客は14人か15人で、全員が高速船の客でした。それ以外にいないということで、定刻の18時27分よりも2分早く発車しましたが、何所をどう通ったのかわからないまま、1分遅れの18時36分、大牟田駅西口に到着しました。既に18時53分発の特急西鉄福岡行きは入線していますので、これに乗り込みました。既に空は暗くなり始めています。発車すれば、西鉄柳川、大善寺、花畑、西鉄久留米、西鉄二日市、薬院に停車し、1時間ほどで終点の西鉄福岡駅に到着します。
そして、西鉄福岡駅で降りて、大丸の前にある屋台で夕食をとりました。大分大学時代から何度となく福岡(とくに天神)に行き、2004年から2012年まで集中講義のために1週間以上も滞在していたにもかかわらず、屋台に入ったことがなく、この時が初めてのことでした。そして、この機会はもう二度と訪れないかもしれません。福岡の屋台は、ラーメン屋が圧倒的に多いとはいえ、何もそればかりではなく、非常にヴァラエティに富んでおり、コロッケが売られていたり、果てはバーまであるそうです。中州、西中洲、天神などを夕方以降に歩けば、何軒でも見ることができます。
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