碓氷峠
2006年08月06日 | 旅
中山道坂本宿から、軽井沢に至る急峻な峠は
かつて旅人たちを多いに苦しめた。
鉄道が開通してもなお、機関車を増結し、
その急勾配を通過せざるを得なかった。
平成9年9月30日。
碓氷峠を走る鉄道は、その役目を新幹線に譲り
104年の歴史に幕をおろした。
もちろん、全ての列車に機関車を2両も増結しなければいけないという
とても手間のかかる作業やその安全性を考えると仕方の無い事なのかもしれない。
しかしそこには地元の人たちの生活があり、
日々通勤や通学の足としてこの峠を通過する人だっていたのだ。
そんな鉄の轍が、24時を境にして「遺産」になってしまった。
最後の日。
下り列車、つまり峠を登るために付けられた機関車が
軽井沢から戻ってくる列車が、本当の最終列車になった。
横川駅には、多くの人が最後の列車の到着を待っていた。
ただ別れを告げるだけの為に。
やがて遠くから機関車のブロアーの音が聞こえる。
2つのライトが2度と照らされる事の無い銀色のレールを照らし
近づいてくる。
長い汽笛。
それは永遠にも近い余韻を残して
横川の街に響き渡った。
いつもは力強い汽笛も
とても寂しそうに鳴っていた。
そして
全てが終わった。
カーテンコールのない、終幕だった。
いつもは新幹線で通過してしまっていたこの区間を
8年ぶりに在来線で旅をした。
横川から軽井沢まで34分。
JRのバスで九十九折りの碓氷バイパスを走る。
あの頃のような「旅情」は無くなってしまったけど
「生活」はしっかりと引き継がれていた。
なんだか少し、ホッとした。
かつて旅人たちを多いに苦しめた。
鉄道が開通してもなお、機関車を増結し、
その急勾配を通過せざるを得なかった。
平成9年9月30日。
碓氷峠を走る鉄道は、その役目を新幹線に譲り
104年の歴史に幕をおろした。
もちろん、全ての列車に機関車を2両も増結しなければいけないという
とても手間のかかる作業やその安全性を考えると仕方の無い事なのかもしれない。
しかしそこには地元の人たちの生活があり、
日々通勤や通学の足としてこの峠を通過する人だっていたのだ。
そんな鉄の轍が、24時を境にして「遺産」になってしまった。
最後の日。
下り列車、つまり峠を登るために付けられた機関車が
軽井沢から戻ってくる列車が、本当の最終列車になった。
横川駅には、多くの人が最後の列車の到着を待っていた。
ただ別れを告げるだけの為に。
やがて遠くから機関車のブロアーの音が聞こえる。
2つのライトが2度と照らされる事の無い銀色のレールを照らし
近づいてくる。
長い汽笛。
それは永遠にも近い余韻を残して
横川の街に響き渡った。
いつもは力強い汽笛も
とても寂しそうに鳴っていた。
そして
全てが終わった。
カーテンコールのない、終幕だった。
いつもは新幹線で通過してしまっていたこの区間を
8年ぶりに在来線で旅をした。
横川から軽井沢まで34分。
JRのバスで九十九折りの碓氷バイパスを走る。
あの頃のような「旅情」は無くなってしまったけど
「生活」はしっかりと引き継がれていた。
なんだか少し、ホッとした。