小金井市を源流として、西東京市、練馬区などを流れてきた石神井川は
北区堀船で隅田川に合流し、その名での流れを終える。
その合流直前に架かる、つまり石神井川としての最後の橋梁が新堀橋である。
(新堀橋)
厳密に言えば、さらに下流で首都高速中央環状線が合流部の上を跨いでいるのと
旧流路が新堀橋の20mほど上流で現在の流れの左に折れており
首都高も、新堀橋の1つ上流の豊石橋も「最下流」と言える。
(豊石橋から見た新堀橋と首都高)
豊石橋は、もともと西福寺に納められたとする石地蔵に由来する
「奉石橋」と書く名であったがいつの間にか現在の字となり、
「北区豊島」の「石神井川に架かる橋」
な感じの漢字になってしまった。
(真言宗豊山派 三縁山西福寺)
その新堀橋の付近には、室町時代末期に太田資正の子、梶原政景が屋敷を構えていた。
その屋敷の堀の内側と言うことで、この地を「梶原堀之内」と呼ぶようになった。
梶原の地名は、都電の停留所に残されており、
また梶原郷内に鎮座する白山神社のそばには
白山堀公園という公園が、堀の名残として残っている。
(都電荒川線 梶原停留所)
(白山堀公園)
(白山神社)
この付近は21世紀に入ってからも度々洪水が起こるような地で
江戸時代に水害などから逃れるために巣鴨村池袋付近に分郷移住し
この地を新田堀之内と呼んだ。
(堀之内の碑:豊島区上池袋)
池袋付近の堀之内は、東上鉄道の駅名となったが、
堀之内駅は昭和20年4月13日の空襲で消失し廃止。
戦後に同位置で東武東上線北池袋駅として再開した。
(北池袋駅)
梶原堀之内はその後、船方と合併し「堀船」となり
新田堀之内の名も、戦後高度成長期の町名変更によって
堀之内町から上池袋となり、山手線の踏切と跨線橋の名にのみ残された。
踏切は、山手線貨物線路にあったが、貨物線の旅客線転用化を機に
明治通りの渋滞が恒常化したため山手線と同じく立体交差に改められた。
この為踏切は消滅し、現在は跨線橋の名に残るのみである。
(堀之内橋から見る山手線とスカイツリー)