事故に遭いました

2015年03月16日 | 徒然
自宅玄関先に、違法駐車してる車がいたのですが
私が通用口から本玄関に行こうとした時に
その車(軽のワンボックス、シルバー)が発信して
その際に車体後部が私にぶつかりました。

交番のおまわりさんと、交通鑑識が来てくれて、
救急搬送の要無しながら、ひき逃げ事件として立件してくれました。

ひとまず怪我は無いので大丈夫ですが、
地元滝野川署の親切な対応に感動しました。
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被災地のこと 福島

2015年03月15日 | 
地理好きや気象好きなら、当然ご案内ではあるが
福島県は「会津」「中通り」「浜通り」の3つの地域に分けられる。

会津は、猪苗代湖や磐梯山、会津若松といった西側山間部、
中通りは福島市などの盆地を中心とした東北本線沿線の中央部、
浜通りは東側沿岸部である。

福島の震災は津波と原発による被害以上に、風評被害が大きい。
原発反対派と自称する人達による流言飛語や言葉のレトリックによって、
福島の多くの農林水産業が被害を受けた。
住民たちも、放射線以上にそれらの被害、つまり偏見などの被害を受けた。

実際には、津波も原発周辺の避難区域から遠く離れた会津の人たちも
「福島県」というだけで被害を受けている。

当時の政権は何もしていないだけでなく、全ての責任を原発に押し付けて逃げてしまった。

福島の人々は自分たちの力で復興を目指した。
レジャー施設や交通機関も、何とかして復活させようとがんばっている。

スパリゾートハワイアンズは、あの日から1年も経たない
平成24年2月に、全面再開している。

福島臨海鉄道も、スパリゾートと同じく24年2月に全線復旧した。



JR常磐線も、平成30年までに、不通区間の大半を復旧させるとしていて
全線復旧の時期は未定としながらも将来の復旧を見据えた計画方針を
安倍晋三首相が発表するなど、少しずつ前進している。


いわきの街の中心部は、揺れや津波の被害が少なかった事から
震災前とかわらなず、地方都市らしい、賑やかながらのんびりした時間が流れている。

郊外には仮設住宅が建ち並んでいる。
50kmも離れていないふるさとへ、みんなで帰れる日を待ち望む人々を
今日も「復興支援バス」(新常磐交通)は運んでいる。

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新幹線

2015年03月14日 | 
今日、北陸新幹線が開業した。

(北陸新幹線)

私はもともと新幹線が大好きだ。
生まれた時にはすでに東海道新幹線は開通していて
幼稚園に入る前から、毎年夏には熱海の別荘へ
こだま号に乗って出かけていた。
いつもミッフィーの絵(当時は「うさこちゃん」と呼ばれていた)の書かれたバッグに
新幹線のおもちゃを入れて持ち歩いていたくらい
新幹線が好きだった。

小学生になってからは、正月に家族で京都へ行くのが
お決まりの行事になった。
こだま号からひかり号にランクアップされたわけである。

(新幹線0系)

中学高校では、夏に大阪で開かれるコンクールへ出場するため
2階建て食堂車の付いた、100系という車両のひかり号の
16号車(団体用指定席は16号車だった)で行き来した。

(100系)


母との最期の旅行も、新幹線での京都旅行だった。

(母との最期の京都旅行はN700系のぞみ)

仕事でも遊びでも、週に何回も新幹線に乗れる身分になったけれど
東海道新幹線はもちろん、山陽、九州、東北、上越、山形、秋田、北陸、台湾高鐵、
どの新幹線、どの区間でも、いまだに発車する時のあのワクワク感は
堪らなく好きである。

(台湾高鐵でも、そのワクワクは変わらない)

もちろん、あのカッチカチのアイスも、コーヒーも、海鞘(ほや)の燻製も
飛行機の機内で飲むコーヒーとは比べものにならないくらい
私には贅沢なご馳走である。
(もっとも飛行機のドリンクは無料、新幹線のは車内販売だが)

(一番の贅沢は足湯に浸かれる“とれいゆ")

今のところ、開業したての北陸新幹線の長野から金沢の間が未乗車区間である。
近いうちに乗るべく、無理矢理北陸方面への用事を作るつもりでいる。

(ちなみに昨日はE6系に乗車)
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豊嶋氏による中世城郭 (5)石神井城と城下の自然

2015年03月13日 | 徒然
石神井の名の由来は、その昔、村人が井戸を掘ったところ
石棒が出てきた為にこれを石神様として祀ったと言われている。

また石神井神社には、三宝寺池から引き揚げられたとされる
石の剣が祀られており、これを石神とする説もある。

現在の石神井公園は、豊嶋氏の築いた石神井城と
その城下の二つの池、三宝寺池と石神井池の範囲である。

(石神井池)

(三宝寺池)

三宝寺池は沼沢植物群が自生しており、昔の武蔵野の面影を遺している。
池の南側の高台が石神井城の跡で、石碑なども建てられている。



豊嶋氏による初期の築城で、鎌倉時代より土豪の館であった場所に
彼らと姻戚関係を結んだ豊嶋氏が室町時代に本拠地としたとされている。

(石神井城の土塁を上がる階段)

南側の城下、石神井川にかかる橋を豊島橋というのは
北区豊島でも豊島区でもないまして豊島園近傍でもないこの地が
豊嶋氏の最盛期の本拠である証でもある。

三宝寺池と石神井池は、かつて石神井川の水源の一つであったが
現在は湧水量も減り、本流とは切り離されてしまっている。
ただし増水時は越流水が旧流路である和田堀緑道の地下の導水管を経由して
小金井から流れて来る石神井川本流に放流させている。

(石神井池から石神井川への流路跡)

(現在でも増水時には池の越流水が導水管によって石神井川へ注がれる。その開口部)

現在の石神井川の流れは、流路整理によって直線化されたもので
旧流路の蛇行した河岸は南田中アパートの南側に
塚越の森緑地、元締山の森緑地、長光寺橋緑地として
現在でも崖や森が残されている。
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豊嶋氏による中世城郭 (4)練馬城

2015年03月12日 | 徒然
練馬は古代、乗潴(のりぬま)駅があった場所とされ(一説に曰、杉並の天沼とも)
この乗潴が転訛され、練馬(ねりま)になったとされている。

練馬城は石神井城の支城として室町時代に築城されたとされる城郭で
豊嶋氏の城として平塚城などと共に、太田道灌との戦いなどで最前線となった。

文明9年には、道灌は江戸城から出兵し平塚城を攻めるが
なんとか持ち堪え、その間に練馬城と石神井城から豊嶋氏の軍勢は出兵する。

この時の戦が豊嶋氏滅亡につながっているのだが
その際、城下の江古田・沼袋が激戦地となり荒廃し
練馬城も兵が敗走したことから廃城になったと思われる。

(練馬城付近の石神井川)

練馬城の跡は、明治時代に「豊島公園」として整備され
大正15年に庭園「豊島園」として開園する。つまり現在、遊園地となっている「としまえん」こそが
練馬城の城址である。

(としまえん)

かつて軍馬が駆けた場所を、今はメリーゴーランド「エルドラド」の馬が回っている。

(エルドラド)
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豊嶋氏による中世城郭 (3)志村城と赤塚城

2015年03月11日 | 徒然
豊嶋氏の城は、荒川の上流側にもあった。
志村城がそれである。

(志村城址の高台を前野町側から望む)

志村城跡には、豊嶋氏の記憶を遺すように、熊野神社が建っている。

志村城は、現在でもその築城年代が不明であるが
大まかには15世紀と考えられている。
「志村」は、村名であり、地名としては「志」であり
現在「しむら」と読むこの地は、地誌によれば
かつては「しのむら」と読んだとされている。
志村城に入った志村氏は瀧野川信久の子が名乗った氏であるが
築城後間も無く、豊嶋氏と同じく桓武平氏である千葉家庶流の
馬加(まくわり)氏(著者注 幕張の地名の語源)に追われた千葉氏が
赤塚に拠ったことで赤塚城の支城となった。

2つの城とも周囲を幾つもの谷に囲まれ、北側に荒川の侵食段丘を持つ
難攻不落の城とされたが、赤塚千葉氏の主家である北条氏(後北条)が
豊臣秀吉によって滅ぼされると呆気なく廃城となったようである。

赤塚城は、城跡が整備され赤塚城址公園となった。
またその二の丸跡には、東京大仏が建立されている。



(東京大仏)
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豊嶋氏による中世城郭 (2)王子権現と滝野川城

2015年03月10日 | 徒然
豊嶋氏は熊野信仰に厚く、紀伊から熊野権現を勧請し
多くの熊野社を建立したとされている。
北区に紀州由来の地名が多いのもこの為とされ
王子権現こと王子神社が、これら熊野社のなかでも最大のものである。

(王子神社)

王子神社は、古石神井川と石神井川の分岐点近く、
河川争奪によって、舌状台地の一部が破綻した崖の端にあり
古来、滝が落ちていたことから、この地に建立されたと思われる。

熊野信仰は神道ではあるが、密教、阿弥陀信仰とも結びつきの強い
仏教的要素を持った宗教であり、現在でも豊嶋氏の領地内に
真言宗系寺院が多いのは、単なる偶然だけではないと考えることができる。

石神井川は、かつて王子より板橋まで辺りを
その急流の態から「瀧野川」「瀧ノ川」または「瀧ノ河」と呼んでおり
またこの付近の渓谷を「音無渓谷」と呼んだ。
現在、石神井川と谷端川の間の台地の地名である北区滝野川の由来である。

この瀧野川には豊嶋氏の居城のひとつである瀧野川城(滝野川城)があった。
この地に入った庶流宮城氏の更に庶家である信久の頃には、
瀧野川氏を名乗ったとされる。

瀧野川城跡は、現在の真言宗豊山派瀧河山金剛寺となっている。
(詳細は、当ブログにて掲載済)

(金剛寺)
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豊嶋氏による中世城郭 (1)豊嶋舘

2015年03月09日 | 徒然
豊嶋氏は、桓武平氏の秩父氏の一族で、平和時代末期に
最初に拝領した現在の東京都北区豊島が発祥の地とされている。
豊嶋郡に領地を得たことから、秩父武常が「豊嶋」を名乗ったのが最初であり
その豊嶋という名は、縄文海進時に洲(微高地)が多かった事に
由来するとされている。

豊嶋氏の舘である豊嶋舘は、武常の子、近義が
平安時代以前より豊嶋郡衙であった地の西側に築城した
平塚城とも呼ばれた現在の平塚神社である。
(豊嶋郡衙の中心は、現在の滝野川公園内御殿前遺跡とされる)

この場所は、古石神井川(後の逆川、藍染川)と現在の石神井川の間の
舌状台地の北側にあって、縄文海進時の海蝕崖であり
豊島一帯を見下ろすことの出来る場所である。

これは、北区豊島の地が縄文海進時には古東京湾の一部であり
荒川の氾濫原でもあることから水害が多く、それを避けるためであることと
当時の東京は、万一的が攻めてくるとすれば、
その支配地域や勢力、荒川の水利を考えると北側を見通す事が重要と
判断したためではないかと推測される。

この豊嶋舘が平塚城と呼ばれるようになった由来は、
以前にもご紹介したので割愛させていただく。

この平塚城を始めとして、豊嶋氏は荒川、石神井川流域に城を築き
室町時代に太田道灌によって滅されるまでこの地一帯を治めることになる。
(筆者注 豊嶋氏は後北条や武田の下に入り、両家滅亡後は德川家の旗本豊島家として
江戸時代以降も存続している)

(平塚城跡に建つ平塚神社)
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豊島区役所

2015年03月08日 | 徒然
池袋駅東口の北側に豊島区役所がある。
この豊島区役所は今春、東池袋の新庁舎に移転することが決定している。

さて、そこで問題になるのが「豊島区役所前」バス停の名称。



移転先の東池袋一丁目行きのバスが
4月1日から経路新設されることも決まっており
こちらが実質的に「豊島区役所前」になってしまうので
現庁舎前のバス停は改名することになると思われるが
近隣のランドマーク的地名「六ツ又」は
隣のバス停として春日通り上に存在しているので
使うことはできなそう。

清掃工場は、国際興業バスに「豊島清掃事務所」がすでにあるので
「池袋大橋」とかになるんだろうか。



どうでもいいと言えばどうでもいいのだが
街の変化がちょっと楽しみだったりもする。
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増上寺

2015年03月07日 | 徒然
芝・増上寺は、正式名称を三縁山広度院増上寺と言う
浄土宗鎮西派の寺院である。

德川家と深い繋がりがあり、15人の将軍のうち6人が
増上寺に葬られている。

家康公の江戸入府以前より開山されていたが
家康の命により江戸城の裏鬼門にあたるこの地に
遷座したとされている。

現在の芝公園や東京タワーは往時の伽藍や墓域にあたる場所で
今日に至るまで人々の畏敬の対象の建つ場所でもある。

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池袋 子安稲荷神社

2015年03月06日 | 徒然
池袋駅の北側、上池袋の雲雀ヶ谷の谷頭近くに
子安稲荷神社は鎮座している。

この神社は、詳細の由来は不明であるが、
天正年間以前よりこの地に奉斎されていたようで
天正以降に、巣鴨村を拝領していた德川家の旗本齋藤家によって
再興されたという記録が遺されている。

正徳5(西暦1715、皇紀2375)年には、この地に流行った疫病から
この神社の霊験によって子どもたちが守られたとされ
以来、子安稲荷とされたという。

現在は、失われた地名「堀之内」の石碑と
河津桜や梅が咲く静かな佇まいの神社として
地域住民の信仰を集めている。

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英国からの贈り物

2015年03月05日 | 徒然
今日、イギリスに住む親戚からプレゼントが届きました。

投函日が2月27日なので、正味6日で届いたことになります。

以前も台湾と香港からの荷物が3日で着いたことがありますが
いずれも現地の郵便局で発送したもので、格安で送れた上に
予想以上に早く到着するというのがいいですね。


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東京大空襲

2015年03月04日 | 徒然
この時期になると必ず話題にあがる
東京大空襲。

この空襲は3月10日の下町空襲のことを指すが
実際には4月13日深夜(14日未明)の城北大空襲や
4月15日の城南京浜大空襲、5月25日の山手大空襲も
忘れてはいけない。

当時、警視庁消防部で署長であった祖父は
空襲の際には消火は無駄な事なので、子どもたちを連れて
近所の人共々埼玉方面へ逃げるように祖母へ厳命していたようである。

防空法が云々ではなく、元軍人で所轄署の署長の言う事であるから
隣近所もこぞって避難をしたらしい。

当時、末娘である私の母はまだ産まれてなかったので
祖母と伯父伯母たちは、バラバラになりつつも中山道を北へ逃げたそうである。

戸田橋あたりで夜が白んできて、どうやら空襲は終わったとの事から
自宅へ戻ってみると、一面焼け野原になっているものの
我が家の一角は焼けずに残っていたようで
旧街道と上水の尾根伝いは平成に入るまで戦前の家が残っていた。

私の家もその後、庭に防空壕を掘ったりしたそうだが
幸いにも、その後も焼けることなく、また戦死者や戦災死者を出すことなく
今日までこの地に居座り続けている。

死者の多くが下町大空襲によるものなので
とかくクローズアップされてしまうが
山手や城北、城南地区でも大空襲があったことを
ぜひ忘れないでいてほしい。

我が家の空襲の日は、今でも4月13日である。

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飛鳥山下跨線人道橋

2015年03月03日 | 徒然
飛鳥山から王子駅南口に抜ける歩道橋、飛鳥山下跨線人道橋。
古レールを利用した中路ブレースドリブ固定アーチ橋で
大正14年に竣工した。



管理はJR東日本によって行われていて、王子駅の改札外通路の扱いである。

滝野川から梶原方面(都電 栄町停留所)に抜ける短絡路にもなっていて
住民の散歩道にもなっている。

また橋の脇を京浜東北線が、橋の下には東北線の貨客両線(上野東京ライン、湘南新宿ライン)が通っていることから
撮り鉄のお立ち台にもなっている。

飛鳥山側の崖線からは今でも湧水がわずかに流れ出していて
王子駅側は石神井川と音無川用水暗渠道があるので
地形マニアや暗渠マニアにもオススメの場所である。

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石神井川最後の橋と堀之内

2015年03月02日 | 徒然
小金井市を源流として、西東京市、練馬区などを流れてきた石神井川は
北区堀船で隅田川に合流し、その名での流れを終える。

その合流直前に架かる、つまり石神井川としての最後の橋梁が新堀橋である。

(新堀橋)

厳密に言えば、さらに下流で首都高速中央環状線が合流部の上を跨いでいるのと
旧流路が新堀橋の20mほど上流で現在の流れの左に折れており
首都高も、新堀橋の1つ上流の豊石橋も「最下流」と言える。

(豊石橋から見た新堀橋と首都高)

豊石橋は、もともと西福寺に納められたとする石地蔵に由来する
「奉石橋」と書く名であったがいつの間にか現在の字となり、
「北区豊島」の「石神井川に架かる橋」
な感じの漢字になってしまった。

(真言宗豊山派 三縁山西福寺)

その新堀橋の付近には、室町時代末期に太田資正の子、梶原政景が屋敷を構えていた。
その屋敷の堀の内側と言うことで、この地を「梶原堀之内」と呼ぶようになった。

梶原の地名は、都電の停留所に残されており、
また梶原郷内に鎮座する白山神社のそばには
白山堀公園という公園が、堀の名残として残っている。

(都電荒川線 梶原停留所)

(白山堀公園)

(白山神社)


この付近は21世紀に入ってからも度々洪水が起こるような地で
江戸時代に水害などから逃れるために巣鴨村池袋付近に分郷移住し
この地を新田堀之内と呼んだ。

(堀之内の碑:豊島区上池袋)

池袋付近の堀之内は、東上鉄道の駅名となったが、
堀之内駅は昭和20年4月13日の空襲で消失し廃止。
戦後に同位置で東武東上線北池袋駅として再開した。

(北池袋駅)

梶原堀之内はその後、船方と合併し「堀船」となり
新田堀之内の名も、戦後高度成長期の町名変更によって
堀之内町から上池袋となり、山手線の踏切と跨線橋の名にのみ残された。

踏切は、山手線貨物線路にあったが、貨物線の旅客線転用化を機に
明治通りの渋滞が恒常化したため山手線と同じく立体交差に改められた。

この為踏切は消滅し、現在は跨線橋の名に残るのみである。

(堀之内橋から見る山手線とスカイツリー)
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