椿峰のまち

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2019年2月 青森 その10 八甲田山雪中行軍〔6〕 つづき

2019-03-14 01:25:46 | 歴史あれこれ

『「異端」の伝道者 酒井勝軍』によれば

酒井勝軍は17歳から21歳まで仙台で過ごしたとのこと。

仙台神学校(のちに東北学院に改称)にいて相馬黒光と交流があったとは驚きです。

相馬黒光については こちら

この相馬黒光が酒井勝軍について一文を残しているんですね。

(以下青字は『「異端」の伝道者 酒井勝軍』からの引用です。)

・酒井勝軍は均整のとれた見事な体格、立派な風貌で、音楽が好き、賛美歌をうたふ時は多勢の中からこの人の声だけが際立つてきこえました。無口な方でしたが末無(すえなし・仙台木町通りの地名、黒光の実家があった)の家へよく訪ねて来てくれました。そしてだんだん事情がわかると、酒井さんは貧しい中で勉強している様子、それは自(おのず)から服装などにもあらはれましたから母も共に同情して、手づから織つた木綿縞(もめんじま)を私が縫って、寄宿舎にとどけに行つたこともありました。しかし酒井さんは他人の助けを受けるのを潔しとしないといひ、はじめは容易に受け取らうとしませんでした。その心がけに私たち母子はますますこの人を頼母(たのも)しく思ひましたが、酒井さんはその着物をたうたう着ないじまひでした。それがわかつた時は堅いといつてもあまりに偏屈のやうで、不快な感じをいたしました。

酒井勝軍はさまざまな苦労を重ねて1898年に留学のため渡米、1902年に帰国して、1904年に日露戦争が始まりました。

酒井勝軍は福島安正少将に面接し、即決で観戦外国武官接伴掛に適任とされたようです。

貧乏を極めたアメリカ留学中もさまざまに助けてくれた人がいたところをみると、好もしく助けたくなるタイプのようです。

・日露戦争がはじまると、欧米先進国を中心に各国は競って観戦武官の派遣を日本とロシアに申し入れた。日本が受け入れた観戦武官の数は、明らかになっているだけでも13ヶ国は、イギリス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、スペイン、イタリア、スイス、ノルウェー、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、トルコである。アメリカの観戦武官のなかにアーサー・マッカーサー・ジュニアがおり、息子のダグラス・マッカーサーを副官として連れていたことはよく知られている。

酒井勝軍は士族出身ではあるものの軍人ではなかったので、出征前に乗馬の練習をしてケガをしたりしていたのが戦場では外国武官が驚くような上達ぶりを見せたとか。

・観戦武官たちと日本の軍人を比較すると、日本の軍人たちはやはり見劣りがした。日本の軍人は洗練されていないのである。後進国的ダサさがあるといってもよかった。

ところがである。いざ日々の生活をともにしてみると、超エリートであるはずの観戦武官たちが次第に馬脚をあらわしはじめたのである。

・すべてにおいて不自由がちの最前線において、観戦武官たちには最大限の贅沢が提供されていた。食事については「和洋勝手次第」という態勢がとられ、贅沢嗜好品である葉巻やシャンペンまでもが常に準備されていた。また、宿舎にも最大限の配慮がはらわれていた。彼ら観戦武官たちの宿舎を確保するため、旅団本部や大隊本部に露営を強いることもまれではなかった。

・ところが、日々彼らの口を衝いて出てくるのは不平不満ばかりであった。宿舎の日当たりが悪い。燭(ろうそく)の数が少ない。。荷物の着くのが遅い。パンの焼き方が悪い。牛肉が硬すぎる。

 酒井はこんな賎劣(せんれつ)きわまることをつぎからつぎへと毎日のように平気で申し出てくる観戦武官たちに嫌気がさした。反対に日本の軍人たちの後姿(うしろすがた)が神々しく見えるようになり観戦武官接伴掛となったことを後悔するようになっていった。



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1 コメント

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Unknown (藤村眞樹子)
2019-03-14 01:35:16
観戦武官たちは「観戦」のほかにも仕事があったのではないでしょうか。
武器提供とか日本の軍事力の正確な評価とか・・・・横柄になる理由がありそう。
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