椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

3月28日のまち 瑞穂町へ その4 つづき

2017-04-05 11:10:51 | 平和を考える
多くの車が行きかう交差点のそばにある狭山神社には誰もいませんでした。
この日に瑞穂町に出かけようとしたのは、ネットで狭山神社の記事をみたせいでもあります。

この小道などは源義家が見た光景かもしれません。


ずっと後世になって紡績産業が盛んになりそして衰退したところだったからか、 機神社という小さな境内社がありました。


もしかしたら、日本は源義家あたりから昭和20年までずっと軍事国家であったといえるのかもしれません。

源義家は武運というものを祈りつつ、自らの宿命というものを感じていたことでしょう。

義家の歌については こちら

東北の風は冷たかったのでしょうか。
当時は東北が豊かだったので、ヤマザクラとして感じられたのかもしれない・・・・・などと思ったりします。

こちらは昨日(4月4日)に撮ったヤマザクラです。


義家はヤマザクラに自分を重ねたのかもしれませんね。散っても、侵攻してくる兵士たちの道を塞ぐ役割をしなければならないと。

昭和20年までは、日本はずっとそういう軍事国家であったのだ、ということなのでしょうか。






3月28日のまち 瑞穂町へ その4

2017-04-04 22:44:10 | 日本を元気に
狭山神社の案内板です。古い神社のようですね。ここが箱根ヶ崎1番地だそうです。


石段を上って行きます。


石段を振り返ってみたところです。




船の上にいるような感じがする空間です。




源義家とは こちら



3月28日のまち 瑞穂町へ その3 つづき

2017-04-03 23:37:11 | 日本を元気に
圓福寺の広い墓地の奥の高いところに歴代住職の墓がありました。


見晴らしのよいところです。



狭山市の天岑寺(てんしんじ)小笠原家の墓所を思い出しました。関連記事は こちら

江戸を守る人たちが垣間見える思いがするのです。

徳川幕府を守るというよりも、本音のところでは自分たちの一族を守るという思いだったのでしょう。


先祖は一族が敵味方に分かれて戦った、あるいはどこかの戦いで負けて徳川に従属した・・・・

それでも、一族は強かに生き延びてしっかりと守って来たのだ、という誇らしげな思いを感じることができた気がしました。


境界にあるお寺や神社は、想像力をかき立てる力を持っていると思います。

3月28日のまち 瑞穂町へ その3

2017-04-03 01:04:52 | 日本を元気に
午後から出かけたので、狭山神社と阿豆佐味天神社の2つだけお参りして帰ろうと思いました。
まず狭山神社へと向かいました。

途中に圓福寺というお寺がありましたので、寄ってみました。
瑞穂町・圓福寺HPは こちら

創建1573年とのことですが焼失したりして、現在の境内の建物は昭和・平成の新しいものであったりします。
境内に漂う空気は・・・・興味深いものを感じます。
















おそらく、隠れた村山党の歴史というものがあるからなのでしょう。

村山党については こちら