世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

セミナーに行くよりパーティに行け

2013年06月09日 | 人生
同じお金を出すならセミナーに行くより

パーティに出席した方がよっぽど有意義である。


全てとは言わないが、

ほとんどのセミナーは3,000円、4,000円出しても

それだけの価値がないものが多い。


交通費や時間も含めればなおさら時間とお金の無駄遣いだ。




昨夜はInternational Party に参加した。



日本人は3,000円、外国人は1,500円なので

多くの外国人が集まる。




ボクは外国人扱いにしてもらっている(お得です)。



これで、食べて飲んで、いろんな人と話せて、

知り合って、名刺交換して、facebookで繋がってといっただけでもさらにお得感が増す。


いろんな人(全員)と握手もし、ハグもし(特に可愛い子)、スキンシップも自ずと図れる(さらにお得)。




セミナーではこうはいかない。

もちろん玉石混交だが、それはセミナーも同じだ。


ただ座って一方的に話を聞かされ、

その場ではわかった気にさせられるのはむしろ逆効果になることが多い。


セミナーおたく(オタッキー)には、分かったつもりで行動に移せない人間がいかに多いことか。


それに、自分の意見を言えないばかりか、多くの人と交わり会話を交わすこともままならない。

むしろそれを避ける傾向にある。


そればかりか腹は一向に満たされない。

むしろ空腹感が増すばかりだ。


百害あって一利なし(a hundred harms and not a single gain ;all pain, no gain

とはまさにこのことだろう。


セミナーに行くのは極力やめた方が良い。


――――――――――――――――――――――――――――――

日本人は、知らない人とすぐに打ち解けるのが下手な人種である。

いわゆるパーティに馴染めない。


これも場数をこなすことで徐々に慣れてくる。

初対面でも話しかけるコツみたいなものが身に付く。



目が合えばそれだけでも、挨拶を交わせるようになる。


英語表現を覚えれば尚更だ。

だから、外国人、特に西洋人が多く集まるところでは

パーティマナーというか、要領が早く身に付きやすい。


日本に留まらず、海外に行けばそうした機会も増えよう。


日本人はそうした場が苦手だ。

どうしても日本人どうしてつるみ(hang out with)やすい。


政治家の外交下手も、ロビー活動(Lobbying)も日本の不得手とする分野だといわれる。


グローバル時代、全方位外交時代において、

それで日本(人)はどれだけ損をしているだろうか。



それには語学を磨き、積極的に外に飛び出し、

人の輪の中に入り込んで揉まれることが不可欠だ。



英語ができると人格さえも変わってくる。

明るく積極的でポジティブになり、なんと人生そのものが好転する。


ウソではない。


そしてそれはパーティという実践の場で一層磨きがかかる。



――――――――――――――――――――――――――――――――

という訳で、

帰国後3週連続で週末はパーティである。


もちろん、フリートークの毎月恒例の

「異文化、異業種、友活パーティ」もその中に入る。


22日の土曜日だ。

誰でも気軽に参加できるよ。




飲み食いは、相手を知るのに良い手段である。

しゃべりも滑らかになり、本音が出ることも。

ある意味育ちもわかるし好みも分かる。


そして胃袋は満たされる。


そうしていきつけの店を作っておけばいろいろと便宜も図ってもらえる。



というわけで、昨夜も胃も心も満たされながら床に就いた。

幸せ、そして、感謝。
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パーフェクト・ライフ(理想の生き方)の創り方

2013年06月07日 | 人生
誰しも自分の描く理想的な生活を送りたいと思うだろう。

100%ではないにしろ、それに近づく努力を惜しまないはずだ。


では、自分にとってパーフェクト・ライフとは一体何か。


お金(仕事、経済、財政)、時間(自由度、生きがい)、健康(寿命)、人間関係(家族)といったものが要素となる。


何処で生きるか?

誰と生きるか?

何をして生きるか?


これが3大命題だ。


ボクノ場合、

「何処で生きるか」という命題は、必ずしも特定、固定を意味しない。


むしろ流動的でさえある。

なんせ、タビストなんだから。


裏を返せばホームレスに近い。




2番目の「誰と生きるか」についても、


孤独を好む性分である。

縛りや柵(しがらみ)といったものから無縁でありたいと願う。


ただ、生きていくうえで、あるいは何かを成す上でのパートナーは不可欠である。

社会生活において、全く一人で生きていくことは不可能に近い。


むしろ、パートナーのために尽力するといった方が良いだろう。


何かをしたいと思うのは、もちろん自分の欲求から来るものだが、

行きつく先は誰かのためでなければ成就しない。


それが愛する人のためであればなおさらのことだ。




畢竟、ボクにとって大きな課題は、

3番目の「何をして生きるか」に行きつく。


夢多き身としては、何を(What)には事欠かないが、

それをどうやって(How)成し遂げるかがその都度大きな問題となる。


幸か不幸か、事業意欲というかチャレンジ精神は旺盛だ。

留まるところを知らない。


それ故に、軋轢を生む。


アイデアの数だけ夢が生まれ、夢の数だけ問題が発生する。


問題が起きれば悩み苦しむのは当然だ。


多くの人間は、悩み苦しむのを避けるために夢を諦める。


だが、ボクは違う。

むしろ、悩み苦しみを楽しむ体質を有する。


実は、これこそが困った問題なのだが。

仕方がない。


それが持って生まれた宿命なのだろうから。



5W1Hに例えるなら、

誰(Who)と、何処(Where)で、何を(What)、何時(Whe)、何故(Why)といったことより

どうやって(How)こそ最大の命題と言っていい。


今日もどうやって(How)に頭を悩ませる。



それはいつも破滅(ruin;destruction)というリスクを伴い、失敗を繰り返し、挫折感を味わう。


そうやって試行錯誤の上に、動けば人にたたかれ、罵られ、裏切られ、憎まれる。

それでも懲りることを知らない。

打たれ強くなければこの世は生き辛い。


倒れても起き上がる復元力(サバイバル力)こそ生き延びる最大の術なのだ。



そうしたプロセスを経て初めて小さな達成感に酔いしれることができる。


その小さな達成感こそ次へと繋ぐモチベーションとなる。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――

人生とは飽くなき夢への追求にある。


夢中になるとは、文字通り夢の中にいることだ。

夢の中こそ幸せが詰まっている。


君には夢中になれるものがあるや無しや。


♪夢の中へ~、夢の中へ行ってみたいと思いませんか~、アー、アー、ア~♪



ただ、夢(む)は無を呼び、

究極は霧中に彷徨い「無中」へと行きつく。

それは悟りの境地に近い。


常に心穏やかに、熱い想いを巡らせる。



人生に完了はあっても完成はない。


もちろん完了とは死を意味する。(合掌)


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戦地へ赴く兵士のように

2013年06月06日 | 人生
もう生きて帰れないかもしれない。

もうあの人とは二度と会えないかもしれない。


いつもそう思いながら外地へと旅立つ。

それだけに外地へ行ったら、命を懸けて行動する。

まるで戦場のように。


常に危機意識を持って。

ありったけの感性を研ぎ澄ませて。

いつ、どこで果ててもいいように精いっぱい努力をする。



今日が最後の日だと思って行動する。

もちろんそれは外地だけに留まらない。

何処にいてもそうだ。


魂は常に戦場にある。

それゆえに感性は磨かれる。


―――――――――――――――――――――――――――

何かをしたことには絶対に悔いを残さない。

出来なかったこと、やらなかったことには悔しさが滲(にじ)むから。


やり切ったことには、結果がどうであれ満足感を味会う。

やり遂げて、結果が出れば達成感は頂点に達する。


何も大きな事を成す必要はない。

小さなことにこそ大きな達成感が存在する。


その積み重ねこそが、何時しか大きなものへ届く架け橋になる。




中でも、人との出会いこそ最も大切だ。



その人のために、自分が何かの役に立つことがあるから出会うのだ。



多くの人は、逆に考える。

こいつはオレにどんな利益をもたらすのか、と。

だから、自分の利益にそぐわない奴は切る。



そうではない。

この人は自分を必要としてくれている。

この人のために自分にできることは何か。

What can I do for you?

これこそがフリートークの神髄なのだ。



それには、

一期一会(a once-in-a-lifetime chance )の精神で臨むことだ。

I do everything as if it were a once-in-a-lifetime chance [a special occasion].


この人との出会いは、一生に一度しかない出会いであると受け止める。


一生に一度かぎりであることを強く認識することで、

もう二度と会うことは出来ないかもしれないという思いをこめて、

誠心誠意、真剣に向き合い、言動を行う。


「アー、この人のために何かをしてあげたい」 いつもそう思う。


特にかわいい女性にはその想いが一層強くなる。

それが時に誤解を生むことになる。


それはそれで構わない。

ボクは気にしない。

歯牙にもかけない。

反対給付を求めないから。



ただ、裏切りに関してはそれなりの代償を求めることがある。

それはあくまでもビジネスとしての場合だ。


人間として恨みつらみは一切残さない。

罪を憎んで人を憎まず(condemn the offense, but not the offender) 、というやつだ。


ボクを嫌う奴、ボクに会いたくない奴はソコソコいるだろう。

だが、ボクにはそうしたい相手は一切いない。


悪い人間はいない。

性善説を取っている。


ただ、時に可哀想な人間、哀れな人間とは出来わす。

それでも彼らを許す。



だから、誰だって何時だって真正面から向き合える。

例えボクを振って別れた女であっても。


またまた誤解を生じそうだが。




だからこそ出会った人一人一人、そしてその人と居る一瞬一瞬を大切にしたい。

その人のためには死んでもいい、と思えるくらい万感の想いを込めて接する。


それでなくては説得力は産まれない。


もちろん齟齬(divergence;disagreement[不一致]; a discrepancy〔食い違い〕)をきたす場合も多々ある。

そこは粘り強く話し合おう。

決して決裂してはならない。


向こうから寄せ付けない、逃げていく場合は別として。

哀れだ。


ただボクは諦めない。

相手を認め、許し、妥協点(a point of compromise)を探り続ける。




――――――――――――――――――――――――――――――――

いつ倒れるか分からない。

いつ死ぬやも知れぬ。


生まれて、生きて、今こうして生かされている。


それは、まだやるべきことがあるから恥ずかしながらも生かされているのだ。


こうしてボクが戦地から無事に帰ってこれるのも、

「あなたにはこの世に生まれた役割がまだ残っているのですよ」

と言われているからだ、と思っている。


「生きて人のために尽くしなさい」、と言われている。

「生きて、もっと生きて、あなたを必要としている人がこの世にいるから」、と。


でなければ、とうの昔に死んでいる。

むしろ死にたい。


死なせてくれー!と叫ぶこともある。



それでもこうしてしつこく生かされているのは何故か。


今日も、誰かがボクを必要としてくれている。


そう思えばこそ、その人のために生きようと誓う。
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街中暮らし

2013年05月26日 | 人生
ここはハノイの中心街、

旧市街(Old Quarter) と呼ばれるど真ん中で暮らしている。


店から歩いて2分のところにあるホテル暮らしだけど、

朝食付き、アメニティ、掃除付で一泊$24ドルは格安だ。



    ホテルから見た Old Quarter の町並み

旧市街だけあって、高い建物はほとんどない。




3日も同じところをうろついていれば、顔見知りも増える。

ご近所さんとも挨拶を交わす。




     店の左右の並びだ


チョッと買いものするにも、食べるところも事欠かない。


こんなモデルと遭遇することも



だからといって、うるさくて寝れないこともない。


ボクは、静寂さの中でも騒音の中でも平気で寝れる得な体質だ。

そうでなければ「タビスト」は務まらない。



―――――――――――――――――――――――――――

ここはある意味フリートークと同じ立地条件にある。


その中にあって、どうやってビジネスを成り立たせるかが課題となる。

幸いフリートークには、競合相手がいない。


オリジナルの恩恵を受けている。


だが、ここハノイの店は横並びだ。

同条件で、いかにお客を獲得するかが勝負の要となってくる。


ボーッと待っていて来てくれるほど甘くはない。

打って出なければお客はつかめない。


阿蘇の「English Village」の例を取るまでもなく、何にもしなければ誰も来ない。

文句や不満を並べ立てたところで、何も解決しない。


それどころか、自分で自分の首を絞めてるだけだ。

それすら分かろうとしない。


経営感覚以前に人間性の問題だ。


阿蘇の「English Village」は店舗の賃貸借契約であるからこちらは良いとしても、

ハノイは出資者である。


しかもここを足掛かりに東南アジアのビジネス展開を計ろうとしているのだ。


ここに常駐していればそれなりに長期展望は描けるのだが

10日余りの滞在で、どれだけ成果が出せるか。


精いっぱい尽力するのみだ。




昼間は締めているという。

カフェでは客単価が低く、割に合わないという。


この昼間のスペースの有効利用も併せて考える必要がある。




人件費の問題も大きい。


商売の基本は単純だ。

「売り上げを伸ばし、経費を抑える」 ことに尽きる。


お客が多くなくても、経費が掛からなければソコソコやっていける。

これが家族経営の強みなのだ。



だが、高いテナント料を払い、人件費もかかるとなれば

相当な入込客数を確保しないとやっていけないことは自明である。


そこの基本的な経営理念に乏しいようだ。



ハノイの店が、阿蘇の「English Village」と同じ轍を踏まないようにしなければならない。


まあ幸い、

「どう転んでも、どんな形になろうとも生き抜いていける」 強い信念は持ち合わせている。

それがボクの唯一の強みだ。


ときどき弱音は吐くけどね。

それはご愛嬌。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

明日からは、N氏が合流する。

いよいよ、『東南アジア進出戦略会議 イン ハノイ』が開催される。


ハノイ近辺におられる方、

東南アジア進出を目論んでおられる方は集結されたし。


ビール片手に楽しもう!!

Viva!! Vietnam!!
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グチポスト

2013年05月21日 | 人生
NPO法人IPAのプレ活動の一環として、このたび


『グチポスト』を開設しました。


lend sympathetic ears to troubled strangers

(関西には「グチバンク」がありますが)


30分500円(コーヒー付)であなたの言いたいことを聞くというシステムです。


NPO法人IPAのメンバーにカウンセラー資格保持者がいることから実現しました。




悩みでも人に言えないことでもなんでも聞きます。

夢を語っていただいても結構です。

そして、その夢がなかなか実現しない。

「なんでだろう、こんなに頑張ってるのに、コノヤロー!」 なんてのもOKです。



基本的に聞くだけですが、ご希望があればカウンセリングも致します。

胸に詰まった、あるいは押し殺していた想いを一気に吐き出してください。


もちろん、守秘義務は貫きます。



具体的にイベントとして近日中に立ち上げます。

また追ってfacebookからお知らせいたします。


―――――――――――――――――――――――――――――――

実は、フリートークには以前からなぜか心を病んだお客様が大変多くお見えになります。

ですから、ずいぶん前から同じような活動をしております。


ただ、正式なカウンセラーやまして精神科医でもありませんので

表立って明記していませんでした。


今回、NPOを立ち上げるに際し、

身障者団体様のご協力も得ることが出来るようになりました。


そこで活動内容に、身障者支援事業も織り込むことにしました。

もちろん、日本人のみならず、外国人の方も対象です。


英語を始め、外国語でも愚痴をお聞きします。


そのためにもボクも、マルチリンガルの道を目指して頑張ります。

とりあえず、ベトナム語の習得かな?



――――――――――――――――――――――――――

熊本も、ベトナム人が増えています。

彼らとの付き合いも徐々に増してきました。


彼らは英語があまり堪能ではありません。




明日から、2週間ほどベトナムに行きます。

今回は、ハノイの店のベトナム人スタッフとの会話を余儀なくされます。


今まで以上に多くのベトナム人と知り合うことになるでしょう。


良いも悪いも含めて、新たな展開が待っています。

またまた未知の世界へと漕ぎ出すのです。


ワクワクします。


夢や希望は限りなく広がっていきます。


早くNPOを立ち上げなくては。



賛同者、協力者を引き続き募っています。

興味のある方はご一報ください。


もちろん、愚痴もお聞きしますよ。
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子供のように Like a Child

2013年05月20日 | 人生
「まるで子供ね」

とよく言われる。


そう言われることを結構気に入っている。


「いい歳こいて」とバカにされても、

褒められていると受け取る体質が自分の中で出来上がっている。


何といっても、打たれ強いもんで。



誰が言ったかは知らないけれど、

「男は大人の顔をした子供

女は子供の顔をした大人」
 とは至言だと思う。



ご存じ、『ピーターパンシンドローム』というものがある。

これは精神障害である。


ピーターパン症候群(Peter Pan syndrome)は、


現実の自分の能力や状況、環境を受け容れられずに

どこかにもっと素晴らしい理想的な場所・幸福があるはずだと思い込み、

いつまでも自己アイデンティティを確立できない

『青い鳥症候群』と似た部分がある「不適応状態」(Stress-related disease)なのである。



『ピーターパン症候群』の最大の特徴は、


苦労・努力・責任を伴う現実社会や職業活動(経済活動)などに興味・意欲が持てなくなり、

大人として見られる年代になっても精神状態が退行して、

自分のやりたいことや楽しいこと、責任を伴わないことにしか取り組むことができないという事にある。



永遠に子どものままで『好きなこと・楽しいこと・優しく守ってくれる人』に包まれていたいという『ピーターパン症候群』では、

精神発達の停滞や現実への不適応観、責任を果たせない自己不全感などの症状が出てきやすく、

『大人としての責任・自立のための経済活動』に直面すると強いストレスを感じて

パニック発作・抑うつ感などの心身症状が出やすくなる。



『大人になりたくない・職業活動をしたくない・社会的責任を取りたくない』という『ピーターパン症候群』は、


現実社会の価値観・構造の変化が急速になっていて適応が難しくなっていること、

楽しいことばかりの娯楽的な消費社会において生産活動(仕事)のストレスだけが突出して強まっていること、

モラトリアム(進路選択に迷う猶予期間)を容認する親・社会風潮があることなどが影響していると考えられる。



楽しいことだけをしてやりたくないことはやらないままで済ませたいという

幼児性や甘え、依存心が『ピーターパン症候群』の根底にあるが、


自分がやるべき本業(仕事)への関心・意欲だけが阻害されるという意味では、

ニートの心理・自己評価とも関係する『アパシー(apathy)シンドローム(退却神経症)』の要素も持っている。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

残念ながら(?)ボクノ場合はそうではない。


どちらかといえば、

『コナンシンドローム』かもしれない。


「見た目は子供、頭脳は大人」なんてね。



あるいは、『ディズニーランド・シンドローム』かも。


つまり、ディズニーランドの世界のように、

冒険や感動、華やかさ、面白さに溢れた世界で

何の不安や悩み、ストレスもなく生きていきたいという理想が内面にある。



だが、現実社会では

そういった幻想や依存性を抱えたままでは生きていくことが難しいという現実原則もある。


それにもかかわらず、敢えてその理想を追求していく生き方をする。


だから、行くとこ行くとこでトラブルを引き起こすのかもしれない。


子供は誰しもトラブルメーカーなのだ。




精神分析のリビドー発達過程において、『快感原則』から『現実原則』への転換が起こるように、


“幼児的な全能感・魔術的な思考(他人を操作して何でもして貰えるという幼児的な願望)”が去勢されることによって、

人は自分の人生を自分で切り開いていくという「自立心・責任感」が芽生える。(wikipediaより)



その辺はしっかり押さえておきたいものである。




――――――――――――――――――――――――――――――――――


マドンナの歌に♪Like a virgin♪があるが、


♪Like a virgin(まるでヴァージンのようね)

Touched for the very first time(初めて触られた時みたい)♪


のように、Like a child

have [be trying] experience for the first time


はじめて経験するように、

何事にも好奇心(curiosity)にあふれているのだ。


何でもやってみたくなる。

まるで子供のように。



そう「まるで子供ね」 といわれるとボクはすぐにとろけてしまうのだ。






―――――――――――――――――――――――――――――――

以下、wikipediaから抜粋しておく。

関心と時間なる人は読んでね。



「ピーターパン」は人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っており、

『自己中心的』・『無責任』・『反抗的』・『依存的』・『怒り易い』・『ずる賢い』というまさに子供同等の水準に意識が停滞してしまう大人を指す。

ゆえにその人物の価値観は「大人」の見識が支配する世間一般の常識や法律を蔑ろにしてしまうこともあり、

社会生活への適応は困難になり易く必然的に孤立してしまうことが多い。


また「ピーターパン」は年齢的には大人の男性である「少年」で、

母親に甘えている時や甘えたいと欲している時に、母性の必要を演じる傾向も持ち合わせている。

(所謂幼児回帰の要素も含んでいる)



ピーターパン症候群患者の心理学的なアプローチとしては、言動が「子供っぽい」という代表的な特徴をはじめ、

精神的・社会的・性的な部分にリンクして問題を引き起こし易いという事が挙げられている。


過去に解析されてきた事象のほとんどでその症状に陥ったと思われる人物が「男性」であるという点も

この症候群が男性にのみ訪れるという特色を示している。
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思い通りの人生

2013年05月19日 | 人生
人生が思い通りに行けばこんな楽しいことはない。

だが、ほとんどの人はなかなか思い通りにいかない事の方が多いのではないだろうか。

ボク自身、思い通りに入っていない。

だから、時に落ち込む。


だが、立ち直りは早い。

それは、一旦落ち込んだ後、考え方を切り替えるからだ。



何故思い通りにならないのか。


それは、思い通りにいかない方が、その人(自分)の人生にとってよりいいからなのだ。


思い通りに行けばより良い人生が送れると思うのは、エゴであり錯覚にすぎない。



思い通りに言っていないと思っても、今起きている状態が最適なのだ。

それがたとえどんなに悲惨な状態であっても、なのだ。


だからといって、甘んじてはいけない。

最適ではあっても、最高ではないのだ。


だからさらに思い通りになるよう努力すべきなのだ。

最適から最高に近づけるべく日夜精進すべきなのだ。



人生が思い通りに進んでいる(と思う)ときは、どうしても傲慢に成り甘さが露呈する。

そこに隙ができ思わぬ落とし穴が待っている。

それが失敗への方程式なのだ。




思うとおりにいかず、いらいらすることはよくあることだ。


このイライラの気持ちの持っていきどころで人生は決まる、と言えるだろう。

自暴自棄になるのは最悪だ。

諦めてしまうのは最低だ。



まず、イライラの気持ちをまず落ち着かせること。

冷静になることだ。


何故思うとおりにならいのか、うまくいかないのかを反省とともに深く考えなければならない。



もう一つ大事なことは、

ああしたい、こうなりたいと思うことが本当に自分にとって最高なことなのかを再考する必要がある。


幸せになりたいと思って、なかなか幸せにになれないのは、

思う形の幸せにはならない方が良いからかもしれない。


宝くじに当たりたいと思っても、なかなか高額賞金にあり付けないのは、

当たらない方が良いからなのだ。


下手に高額を手にして、かえって不幸になる人は多いという。


結婚したい、結ばれたいと思う人とそうできないのは、

理想の人(理想だと勘違いしていいる人)と結婚してもかえって不幸になる場合だってよくあるからだ。




そう言いながらも、

ボクは思うとおりの人生を歩んできた。


そして、これからもそうするであろう。

いや、思うとおりの人生を歩む。


だから、自分の最高と思う姿を描き、

それに向かって邁進(まいしん)している。


日夜もがき苦しみながらも、現状を最適な状態として楽しみながら。




ボクが自分の最高と思う姿、とは。


それは

それは、






愛する人のために、喜んでもらえることをすることだ。


その愛とは、「人類愛(love for humanity [mankind])」であり、「博愛(philanthropy)」である。


身近な人をすべからく愛し、

その人の夢を叶えるお手伝いをする。


それは何も自己犠牲を意味しない。

ただ、大いなる誤解は生む。


例えば、ボクをエロオヤジ呼ばわりする輩。

全否定はしないが、それは人類愛の賜物(a gift to love for humanity)である。



I don’t fear others judge and reputation,

because they come almost from misunderstandings.


(人の評価や噂を恐れない。

なぜならそれはほとんど誤解からきているからだ)



     可愛らしいエンジェルたちもパーティに参加




昨夜もパーティで、一人残って片づけをした。






ある人が労(ねぎら)いの言葉をかけてくださった。


「大変ですね」 って。

有難いお言葉です。



でも、はたと思った。


ぜんぜん大変なんて感じてないのだ。

むしろ、嬉しくてうれしくてたまらなかった。


みんなが楽しんで、食べて、飲んで、笑って、踊って、ハグして・・・。


大変だなんて微塵(みじん)も感じない。

かけがえのない幸せ感に包まれている自分を感じた。



―――――――――――――――――――――――――――――

思い通りにできないことを数えれば、きりがない。

そして、その一つ一つにため息が出る。


だが、こうして出来たことを思えば自然に笑みがこぼれてくる。


自分ができることなんて、些細なことだ。


ただひたすらに、愚直に小さなことを一生懸命やることで

目に見えなくても、結果が出なくても、

一つでも誰かの望みを叶えることに繋がれば、それだけでよかったのでは。



昨夜も深夜の2時半を回って、ベッドに横になった。

いつもベッドに横たわっていう言葉がある。


「ありがとうございました。

幸せです、本当にありがとうございます」



そして心穏やかにして腹式呼吸を数回するうちに、

深い眠りに落ちていく。
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幸せになるための2つの条件

2013年05月12日 | 人生
やるべきことがあって

守るべき人がいる。



人はこれだけで十分幸せなのだ、とある人はいう。


これだけで生きる力が湧いてくる。

この二つの要素を持つことが、最高の人生を送ることが出来る秘訣なのだ、と。




そうなのか?

いささか疑問が残る。



2月18日付「生きる秘訣」でご紹介した


http://blog.goo.ne.jp/dreamincountry/preview?eid=3f478c981170e9783104a607c3966c02&t=222067259518ed1a6c8555?0.08063169207132986

幸せの度合いを測る「人生の輪(Wheel og Life)」における8つの要素がある。




1.感情・精神状態

2.健康

3.人間関係・家族、友人、知人、パートナー、恋人、仲間

4.財政・お金・経済

5.ビジネスとキャリア(仕事)

6.時間と自由・遊びや余暇、ゆとり

7.環境・住居、場所

8.ミッション・学び(学習)や自己啓発



は、とどのつまり冒頭の2つに集約できる。


つまり、4.5.6.8は「やるべきこと」の範疇に属するだろうし、

3と7は「守るべき人あるいはもの」といえる。


そして、1と2はその二つが微妙に絡み合っているといえるだろう。



この輪に自分の今の状態を照らし合わせてみた。


幸いボクには


やるべきことが(沢山)あって、

守るべき人が(沢山)いる。



ただ、4番目の「お金・経済・財政」が極端に弱いのだ。


その他はまずまずといったところ。



やること、やるべきこと、やりたいことは数多とあっても

それが、どれもこれも収入と結びつかないところにジレンマがある。


社会起業と粋(いき)がってみたところで、

その日の食にもありつけないとは、ナント情けない。

(職はあっても食がない、トホホ)



つまり、

ここ(4番)がクリアできれば、人生を謳歌できるのだが…。



と思う反面、

仮に4番が満たされ、経済的に豊かになった途端、

人間関係や健康に支障をきたすのではないかという不安も隠せない。



なぜなら、人間には驕(おご)りが生じる時がある。

特にお金と権力(地位)を手に入れた場合だ。


ボクも例外なくその傾向にある。



「驕れるもの久しからず(Pride goes before a fall. )」、という。


驕りは奢(おご)りに繋がる。


奢り奢られは世の常だが、贅沢(live in luxury)になっては

「奢(おご)る者(もの)は心(こころ)嘗(つね)に貧(まず)し」 となりかねない。


(ぜいたくをする者は、かえって満ち足りた思いをすることがなく、さもしいものだ、の意)




では、どっちやねん、ということになる。



どうも、上記の「人生の輪」で、実生活がその円の端にすべてが張り付く

つまり、10点満点あるいはそれに限りなく近い人生などとはあり得るのか、という疑問が湧く。



そうなると、

金が無くても、やること(仕事)があるだけでも十分幸せなんじゃねーの?

と最後は開き直ってしまう。




幸せな金持ちはいない。

不幸な大金持ちはチラホラいる。


金持ちになった途端、ついつい不幸の蜜つを舐めてしまう。


それに気が付いたものは、

すべからく邪悪な金を手放そうとする。


それが寄付や慈善事業といったものとして現れるのかもしれない。




不幸でもいい、

お金持ちになって慈善事業してみたい。


これが凡人(自分)の本音だろう。



だが、今は汗水たらして、

愛する人のため、守るべき人のためにせっせと働くのみ。


そして、

じっと手を見る。


Work after work,

 my life will never be well.

I stare at my hands




何だ、


幸せって結局 Working poor か。


さ、今日も頑張って汗水(冷や汗)たらして仕事しよ!!
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あの人のために

2013年05月08日 | 人生
多くの人を救うことは出来ない。

でも、一人の人だったら助けることができるかもしれない。


そんなことをかのマザーテレサも言っていた。



その一人が、

二人になり、三人になっていく。


今係わっている人にフォーカスして

出来ることをやってあげよう。



側に寄り添って話を聞くだけでもいい。

何かをするという気負いはいらない。


見返りは一切求めない。

ただ自然に、その人のことを想うだけでいい。

Just ask what I can do for you.


きっと想いは届く。



「あの人のお役に立ちたい」

「少しでも喜んで欲しい!」という思うだけでいい。




だけど、そんな想いとは別に現実は動く。


そこには素直になり切れない君がいる。

素直じゃないのは愛の裏返しか。


いや、そうでもなさそうだ。



ときどき一緒にいたいと思う人はいる。

だけど、


ずっと一緒にいたいと思う人はなかなか見つからない、のはなぜ?
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OFFの過ごし方で人生が変わる

2013年05月04日 | 人生
今年のゴールデンウィークの実質8日間は

ボクにとってOFFなんだよね、本当は。


休暇を目いっぱい楽しんでいる人もいれば、

地道に休みなく働いている人もいっぱいいる。


ボクのように、仕事もなく、さして旅行やレジャーの予定も組めないでいる人間は

何をすればいいのか。


ボーっと一日を寝て暮らすのも良し、

DVD三昧で過ごすのもいいかもしれない。


だが、ゴールデンウィークに限らず、OFFをどう過ごすかで

人の人生は決まっていくような気がする。




そう、ボクはさして仕事もなく、OFFの状態なのだ。

でも何?この慌ただしさは。


今までのホテルの仕事はいくら忙しくてもルーティン・ワークだから

ある意味お茶の子さいさいで済むけど、


その都度その都度状況に合わせて適宜に対処して熟(こな)すってのは

忙(せわ)しなくてしょうがない。


だけど、これも性分だね。

これがまた、実に楽しいんだよね。


こういう生活っていうか、生き方。

生きてる!活かされてる!って実感がビリビリ伝わってくるんだよね。




ボーっと過ごすのも悪くない。

休暇なんだから。


好きなことをして遊んですごすのもイイだろう。

だが長い目で見た時、過ぎ去った時間の重さに気が付くだろう。



今までたまりにたまった案件に取り組んでいる。

新たな事案も出てきた。


また、OFFでなきゃできないことも熟(こな)すにはもってこいの状態だ。

試作の期間でもある。


イベントを組んでボランティアをする。

人のお手伝いをするのは実に気持ちがいい。


乗馬はボクにとってライフレジャーなのだ。

自分で好きなだけ馬に乗り、

普段は値段が高くて乗る機会がない人たちに乗り方を教えるのも嬉しいことだ。



昨夜も、深夜、研ぎ澄まされた頭に入りンなアイデアが夢の中に入り込み

ボクを起こした。


ベッドに座ったまま、PCに向かう。

次から次へとアデアが湧き、自ずとキーボドをたたく手が早くなる。



完成したはずの企画書を書きなおす。

ハノイのカフェの運営について、アイデアを認めメールする。


気が付けば、空が白んでいる。

かえって寝不足になるOFFでもある。
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PrsnT Kumamoto in Free Talk

2013年04月19日 | 人生
特に日本人は、

自分を表現するということに慣れていない。


なぜなら、自分を語る必要がないからだ。

みんな日本人で、隣近所の狭い世界に住んでいれば自ずと誰なのか知ることができる。


同じ言語を使い、同じ行動をし、同じ考えを持っている人々は、

いちいち説明する必要などない。




だが、外部からいろんな人が入り込んでくる。

あるいは、自分が違った環境の中に入っていく。


そのとき、黙っていては誰も理解してくれないばかりか、

訝(いぶか)しく思われるのは当たり前のことだ。



だから、敢えて説明能力が必要となる。

これがコミュニケーション力に繋がる。



そのためには、自分の意見をしっかり持って

相手に伝えなければならない。



その訓練、練習ができるのが

これまで7~8回催されてきた『PresnT』なのだ。



今回は、ITコンサルのプロで

プレゼンに長けたM氏にご登場いただいて




なんと、『愛』について語ってもらった。


そして、後半は参加者全員でディスカッション。




最後は、自分の親に「愛してる」って言って、

ハグしてみようということで締めくくった。



     PrsnT後の二次会もまた盛り上がったよ



ハグは、なかなか日本人には出来そうで出来ないことだ。

そもそも風習がなかった。


だが、、思い切ってハグしてみれば何かが変わるという。



ボクは、上の娘とはよくハグをする。

それは、長年離れていたからでもあり、

娘の配偶者がアメリカ人ということも影響しているかと思う。



日本人にはあまりないハグの習慣。

それでも握手はするようになった。


ボクは、お客様によくハグをする。

意外とすんなり受け入れてもらえる。


どさくさまぎれ、いやいやながらという雰囲気は否めないが。




――――――――――――――――――――――――――――――――

男と女は言うまでもなく、

人間同士は所詮理解しえないものだという結論が出た。


だから、争いが絶えない、と。

そこで思った。


そもそも理解しようと思うから無理がある。

つまりどちらかに歩み寄らなければならない。


だが、そうすれば不平不満が鬱積し、仕舞には爆発する。



そうではなく、

究極のところ、理解できないものだという前提に立てばいい。


その上で、相手を認める、許す、受け入れるのだ


そうして、思いやりの気持ちを抱き、相手を大切にする


これこそが「愛」なのではないだろうか。


そのための手段として、言葉よりバグの方が有効といえるのではないだろうか。


男女であればなおさらだ。

スキンシップはコミュニケーションの最たるものではないだろうか。


だから、裸でセックスもする。


だが、セックスレスが蔓延している。

夫婦でさえ。


結果、離婚率が増え、晩婚化がすすむ、と。

ひいては少子化につながっていく。

なんと皮肉なことだろう。




「愛」とは何か。


考えても結論は出ない。

無理やり言葉で説明することは困難である。

むしろ無意味なのかもしれない。


なぜなら、

「愛」とは説明するものではなく、感じるものだから。




―――――――――――――――――――――――――――――

ボクは今、特定の人への愛から、博愛へと移行している。

広く多くの人を愛する。


博愛とは、すべての人を平等に愛することであり

へだてなく広く愛すること、と辞書にはある。


英語では、 philanthropyという。

または、Love of mankind(人類愛)であり

Charity(慈善)にも通じる愛と言える。


または、

親が子供をいつくしみ、かわいがるような深い愛情や

下の者、弱い者にめぐみや心をかけ大切にする心を意味する

「慈愛(affection)」に近いかもしれない。


それは、母の愛(mother's love)とも似ている。



あるいは、

cherish という言葉も好きだ。

物をだいじ[たいせつ]にすることであり、

人や動物をかわいがる, いつくしむ、さしく世話する、という意でもある。




Phila thoropist(博愛主義者)は古代の昔から誤解を生んできた。

いきすぎれば、八方美人(affable to everybody)ともとられかねない。


affection はややもすればaffair(浮気)に通じる。


そのそも博愛を意味するphilanthorpyは節操のなさと解され、

a philanderer といえば、浮気者の意味になる。



それは多くの人がボクを誤解する大きな要因となっているように思えてならない。




【追記】

一方、偏愛主義者が増えているようにも思える。


偏愛(partiality)とは、読んで字のごとく、

ある物や人だけをかたよって愛することだ。


ある特定の人や物を愛するあまり、

それ以外は受け付けない、嫌う、憎むといった変質的愛といえるだろう。

ストーカーもこれに当たる。



もっとも、

誰も愛せない人はもっと不幸かもしれない。


愛する人がいないというだけで心が荒む。


反対に、愛する人が世界中にいると思うと、心が和む。



【追記²】


「すこし愛して、なが~く愛して」

と言ったのはあの大原麗子だった。


ボクなら、

「いっぱい愛して、ふか~く愛して」 ときっというだろう。
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引き受ける力

2013年04月12日 | 人生
引き寄せる力より

引き受ける力がより大切である。


いいチャンスが巡ってきても、

それを拒絶すれば元も子もない。



頼まれごとは基本的に断らない。

これが基本スタンスである。


お金に関しても、できるだけのことはする。


自分に身に起こったことをすべて受け入れる。


それは許容力に繋がり、器の大きさともいえよう。



人から騙された、罵られた、恨みを買った、

これらすべてに言い訳をすることなく

素直に受け入れることができるか。



ボクは幸い、大怪我や大病で入院生活を余儀なくされたことがない。

ただ、これからそういうことがいつ起きるとも限らない。



事業が上手くいかなくなり、

いつ経済的破綻に追い込まれるやもしれない。


今までかろうじてその危機を乗り越えてきた。

だからこれからもうまく切り抜けられるなどという保証はどこにもない。

むしろ、これもいつどういう形で自分の身に降りかかるとも知れない。


そうした人生に危機は、ボク個人に限ったことではない。

人は、あらゆる不幸の可能性を背負っているのだ。


どんな稀有な出来事も、他人に起きることは自分に起きる可能性を含む。


犯罪に巻き込まれるかもしれない、

自分自身が犯罪を犯してしまうかもしれない。


カッとなって人を殺(あや)めるかもしれない。

それは最悪なことであり、取り返しのつかないことである。


オシドリ夫婦でも、長年の介護疲れで愛する配偶者を殺める例もある。


そこまでのことをしなくても、

信用を失い社会から抹殺されることはよくあることだ。




だが、どんな境遇になろうとも

運命だと思ってそれを素直に受け入れなければならない。


どんなに悔やんでも、過去は戻ってこないし、その事実を消し去ることもできない。


なんとかしようともがき苦しみ、取り繕うことさえ無意味だ。

出来ない言い訳を並べたてるのは愚かだ。



過去の事実を消し去ることは出来なくても、

解釈はいくらでも上書きできる。



やるべきことは、

あらゆる事象を素直に受け入れ

あとはただ、今を100%生きぬき、

今光輝くこと、命を今生き生きと発揮させることなのだ。


今の輝くが未来への輝きへと導く。



もともと人間というものは自由なのだ。

だが、こうありたいと欲を出したり、

こうしなければならないと自分を制限するために

それが足かせとなり、挙句不自由さを必然的に手に入れてしまう。



理想を描くことも、

こうしなければならないとミッションを打ち立てることすら足かせとなる。

そこには少なからず無理が内包されるからかもしれない。




現状を素直に受け入れ、

自然体でいることこそ自由そのものなのだ。


したいことはすればいい。

やらなければならないことなど、実は一つもないのだ。



全てを受け入れ、真に解き放たれた時、

人は自由を手に入れ、今が輝き始める。




ある人がメルマガに書いている。


運やご縁に恵まれる秘訣は3つ


 1.受け入れがたいことを受け入れること

 2.今与えられた仕事に最善を尽くすこと

 3.今一緒にいる人たちを大切にすること



なかなか人生が展開していかない人たちは

1つ目の現状を受け入れていないことが多い、と。


受け入れがたきことを許し

勇気を持って受け入れることが道をひらく大きな一歩である。


受け入れられないモノも与えられたモノだから

受取拒否をしていれば

そのあとにめぐってくる運とご縁も拒否しているようなもの。


受け入れずして、次は無し、と手厳しい。



ごみの分別は必要かもしれないが

人生の出来事をを分別(ぶんべつ)してかかることは


まさに分別(ふんべつ)の無い行為だといえよう。


優れた人はいる。

感じの良い、イイ人もいる。


だが、求められるのは

善悪、良否の敷居を超えた、

全人的な魅力、迫力、実力を備えた人間なのだ。


つまり、清濁併せのむ器量が求められる。


これからの時代、特にグローバル時代を生き抜くにおいては、

愛嬌より器量(ability; high caliber )度胸(brave)、

人気より任侠(chivalrous)といったものが必要となる。


任侠は何もヤクザに限ったことではない。

いやむしろ、正義感にあふれたヤクザほど格好いいものはない。


ある意味、ヤクザにならなきゃこれからの世の中行き抜けない。


さらにいううなら

要領(容量)より器量、

器用より器量なのだ。。



何事も「受け入れる力」を養うためには、

心身魂を鍛え、

人としての器を磨いて、大きくしなければならない。




【今日のワンポイント・英会話】


He gained credit [prestige] by doing it.

彼はそれをすることによって大いに器量を上げた



His brave act 「won him credit [raised him in the estimation of the people].

勇敢な行いによって器量を上げた



caliber (American English)の意: 器量

the level of quality or ability that someone or something has achieved




chivalrousの意: 任侠

to behaves in a polite, kind, generous, and honourable way,

especially towards women
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別れる力

2013年04月11日 | 人生
伊集院静氏の「別れる力」を読んだ。

例によって立ち読みだが。


人は誰しも一生のうちに、幾多の別れを経験する。


友との別れ、

恋人との別れ、

家族との別れ、

親との別れ、などなど。


死はその最たるものだ。


別れはヒトだけにとどまらない。


会社や組織との別れ、

地位や肩書きとの別れ、

住み慣れた所との別れ、

ペットとの別れ、

大切にしていた物との別れ、といったものもある。



だが、別れは、即旅立ちにつながる。

新たな出立を意味する。

新しい出会いが待っている。



別れをいつまでも引きずることなかれ。

去っていった人を恨むことなかれ。


悲哀と惜別は人を優しくし、強くもしてくれる。



ひとしきり涙を流したなら、

上を向いて歩きだそう。


後ろはもう振り返らない。

前を向いて進もう。



―――――――――――――――――――――――――

冒頭の本の話に戻ろう。


別れを「大人の流儀」と捉える彼固有の人生観が漂っていて面白い。


サヨナラだけが人生よ。

遊ぶだけ遊んだら後はグッバイ。



などと、別れを斜(はす)に構えて睥睨しているかのようだ。



数え切れないほどの別れを経験すると、

哀切(pathetic)すら通り越して、どうやら後ははははと笑うしかない。




【ふろく(appendix)】

[Vietsub] Goodbye Baby - Miss A



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2013年04月10日 | 人生
何故愛しているの?

そう聞かれてはたと考えてみる。


分からない。

愛に理由がいるのだろうか。


いちいち理由をつけて愛を語らなければならないのだろうか。

愛しているから、

ただそれだけ。


それだけでは満足しない?


好きだから。

好きと愛するの違いは?

Like と Love の違いと同じ?


like はモノに対して、

love はヒトに対して使う?


love をヒトに対して使うとき、よく誤解を招くことがある。

特に、異性の特定の人を指す時、

それはその人への特別な意味合いを成す場合が多い。



だが、I love people. と言ったらどうだろう。

あまねく人を愛するとき、比較すべきものが無くなる。


本来愛とはそういうものではないだろうか。


異性を愛するのは、

人を愛するための段階に過ぎない。


そうしてときめきや痛みといった愛の意味を知り、

それを繰り返すことで、愛そのものを昇華させていく。


内なる異性への愛を統合し、大いなる愛に気付く。


それはとりもなおさず、自我をも、自我を取り巻くすべてを愛することを意味する。

現実を受けいれることを意味する。


相手に見返りを求めず、

相手が自分のことをどう思うが思わないが、

関係なく自分の愛を貫くことができる。



愛することで、

無条件に今ある現実を受け入れ

今、このままが最もいいことが解るようになる。


聞くこと、見ること、感じることの全てが、良きことのみであったことに気付く。


そうなれば、どんな問題もなくなってくる。

リラックスし、起きてくることを起きて来るままに楽しむことができるようになる。


人や現実を操作しようという気持が起きなくなる。


そして、博愛というものにいきつく。



あるがまま。

それが愛である。
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苦行は続く

2013年04月01日 | 人生
何の因果かはわからないけれど

自分の人生のせわしなさにほとほとあきれ返っている。


神様はボクにどれだけの試練をお与えになろうというのか。

例えどんな試練であろうとも甘んじて受けるしかないのだが。



本来旅とは、期待と不安の中ワクワクドキドキと高揚感を伴うものである。


だが今回の旅は違う。

今までの旅では経験したことがないほど沈んでいる。


昨年から旅の目的が明らかに変化している。

単なる物見遊山はとっくに卒業した。


初めて訪れるところより、2度3度とリピート率が高くなるにつれ

緊張感は薄れる。


旅の目的の一つに、リラックスはあるが

今回はとてもその気にはなれない。



旅に出会いは付き物だ。

それがいかなる出会いであろうとも。


今では、旅先で出会うというより、

出会ってから、その人を訪ねて旅に出る場合が増えている。


つまり、インターネット、特にSNS、さらに絞ればfacebookでの出会いが先行する。


そんなきっかけで出会った人を訪ねる旅が続く。

しかもその人は死の淵にある。



4月1日は、その人の誕生日だ。

死の恐怖に耐えながら、誕生日に来てほしいとその人は言った。


死の宣告はとうに過ぎている時期だ。

生きてほしいという一念からボクは約束した。


「4月1日に行くよ」、と。


そして、その日が来た。

今ボクはそこへ向かう旅の途上にある。


その人が待っているのいないのかはわかわない。

それでもボクは約束を果たすために、機上の人となって向かっている。




希望を繋いで生きていてほしい。

ただそれだけを願いながら。




今、経由地の台北にいる。

これからその地に向かう。


その人は待っているのだろうか、それとも……。
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