「新生フリートーク」になって早3ヶ月半が過ぎた。
徐々に新しいお客様が増えてきた。
このところ、ニューカマーが多い。
そのほとんどがクチコミだ。
古い仲間たちも帰ってきている。
それもこれも、
新しいマネージャーの良さが発揮されだしたことが大きく貢献している。
フリートークの基本理念は保ったまま、
ボクは、人間としての個性を活かすことに努めている。
「日本人に英会話力を」、
「外国人に雇用を」、
というのがフリートークを作った時の2大理念だ。
それには揺ぎがない。
そしてそれは今申請中のNPO法人へと受け継がれようとそている。
外国人を使うというより、
彼らの良さ、個性を十分に発揮してもらう、
表現してもらうことでフリートークは成り立つ。
その意味で、初代マネージャーは思う存分個性と魅力を発揮していた。
彼女の社交性、エンターテインメント性は群を抜いていた。
多くのゲスト(お客様)が彼女のファンとなった。
そうして彼女は1年で黒字化に成功した。
それだけに、彼女の卒業(退職)とともに
フリートークからゲストの姿が消えた。
「企業は人なり」と言われる所以だ。
本来「フリートーク」はここで消えてなくなっていてもあながち(not necessarily)不思議ではない。
ボク自身が手がけたホテルは、
これまで3箇所(阿蘇・南阿蘇村、大分・久住高原、阿蘇・西原村)とも自分自身のいわゆるプライベートブランド力で伸ばしてきた。
そこに、「ペンション」、「観光牧場」、「古民家」というブームが火をつけた。
ボクの感性とマーケットニーズがぴったりと符合した証だ。
それには、すべて『旅』 という根本的な自分自身のコンセプトが隠されていた。
それは今も変わってはいない。
子供の頃から、ボクは『旅』 一筋で生きてきた。
「外国語大学」、
「総合商社」、
「宿泊業」と携わる姿は違っても、
そこには全て『旅』 という共通理念が必ず内在している。
フリートークも然り。
ゲストハウス「ラブトリップ」に関しては、まさに宿泊業の名残りを潜ませた。
国内はもとより、
ボクの旅先は海外へと大きくシフトしている。
その中でどうしても避けて通れないのが、当然だが外国人との接触だ。
今、ボクにとって、外国人は単なる一期一会の存在を離れ、
生活を共にする存在へとその意義を増した。
仕事上の、生活上のパートナーとして。
その関係は事実上は雇い主と従業員と言えるかもしれないが、
ボクの中ではそういう位置づけではない。
ボクは人を雇うということをあまり好まない。
そこには主従関係が生まれるからだ。
むしろボクは、対等な関係を好む。
だから自主性に任せる。
ところが、日本人ときたら、
こと仕事に関しては他人依存が強いから自ら動こうとしない。
日本人体質の中には、指示待ち族、事勿れ主義が蔓延している。
多くの外国人にはその意識が希薄だ。
むしろ、如何に自分を表現するかに長けている。
その芽を摘み取ってしまったら、元も子もないではないか。
自分が好むと好まざるにかかわらず、
その個性、特徴を活かすべきだ。
だからボクは何も命令しない。
提案し、判断は相手に任せる。
明らかに日本人に接するときと、外国人に接する時では
ボクの考えは異なる。
外国人を日本人と同じように手懐(てなず)けることなどバカのやることだ、と思っている。
それでなくても、日本に住む多くの外国人は日本に同化しようと必死なのだ。
とくに「おもてなし」と呼ばれるサービス精神においてはお粗末そのものと言える。
だがそれは、身をもって教える、いわゆる背中で語れば彼らは自ずと理解する能力を持っている。
よく日本人は外国人を「あいつら」と表現することがある。
とくに海外においては顕著である。
何か特権意識を持つかのように、だ。
この意識を払拭しなけれbならない。
確かに、日本人は多くの外国から優秀性を持った目で見られる。
それは日本民族として誇りに思う。
(㊟ ただ、英語に関しては、世界中からバカにされているkとを忘れてはいけない)
だが、日本人が世界で秀でた民族であるを良いことに相手を蔑むようなことがあったら、
それは愚行の何者でもない。
それぞれのお国柄に特徴があるように、
人にも特徴、個性がある。
それを生かさず殺してしまったら無意味だ。
だから、彼らと接するときには
彼らをリスペクトすることから始めなければならない。
そして、思い切って任せることだ。
たとえ、例え自分のやり方、考え方と違ってもだ。
相手を信頼することだ。
「好きにやっていいよ」というと、
最初は戸惑う人もいるかもしれない。
ただ、結果を重要視することは忘れない。
すなわち成果を出すこと、つまり利益を上げることだ。
ここに暗黙の了解がある。
それは彼らのサラリーに無条件に反映するからだ。
利益を上げなければ淘汰される。
言うまでもない企業の論理だ。
それをわきまえ、実行に移せる者だけが残る。
だから、出勤時間も、休みも全て本人に一任している。
法を犯さなければ、あるいはスレスレでも何をやっても構わない。
要は、結果が重要視される。
それだけ厳しいのがグローバル社会(世界)なのだ。
そうしてもう一つ、心がけていることがある。
前のマネージャーと一切比較しないこと。
話題にもしないこと、だ。
彼は水を得た魚のように徐々に頭角を現してきた。
これこそがボクノ意図するところである。
【追記&補足】
今や海外(ハノイ)にも店を持つ身。
そこで働く人も、全て現地の人々(ベトナム人)である。
ドップリと外国人の中に身を置く自分を、
ボクは幸せ者だと感じ、
彼らの一人ひとりに感謝している。
ボクがいなくても、彼らは一生懸命考え、工夫してやってくれている。
海外展開はこれから勢いをますことは間違いない。
もちろん、国内においても然りである。
なお、題を「取説」としたのは
人に対しては不適切な言葉であると自覚している。
そのうえで、敢えて使ったのは、
一種の流行り(はやり)に沿っただけのことである。
ご理解いただきたい。
「外国人の取り説」まとめ:
① リスペクトする
② 任せる
③ 信頼する
④ 比べない
不思議なことに、
これは、ボクの子育ての論理とも一致する。
徐々に新しいお客様が増えてきた。
このところ、ニューカマーが多い。
そのほとんどがクチコミだ。
古い仲間たちも帰ってきている。
それもこれも、
新しいマネージャーの良さが発揮されだしたことが大きく貢献している。
フリートークの基本理念は保ったまま、
ボクは、人間としての個性を活かすことに努めている。
「日本人に英会話力を」、
「外国人に雇用を」、
というのがフリートークを作った時の2大理念だ。
それには揺ぎがない。
そしてそれは今申請中のNPO法人へと受け継がれようとそている。
外国人を使うというより、
彼らの良さ、個性を十分に発揮してもらう、
表現してもらうことでフリートークは成り立つ。
その意味で、初代マネージャーは思う存分個性と魅力を発揮していた。
彼女の社交性、エンターテインメント性は群を抜いていた。
多くのゲスト(お客様)が彼女のファンとなった。
そうして彼女は1年で黒字化に成功した。
それだけに、彼女の卒業(退職)とともに
フリートークからゲストの姿が消えた。
「企業は人なり」と言われる所以だ。
本来「フリートーク」はここで消えてなくなっていてもあながち(not necessarily)不思議ではない。
ボク自身が手がけたホテルは、
これまで3箇所(阿蘇・南阿蘇村、大分・久住高原、阿蘇・西原村)とも自分自身のいわゆるプライベートブランド力で伸ばしてきた。
そこに、「ペンション」、「観光牧場」、「古民家」というブームが火をつけた。
ボクの感性とマーケットニーズがぴったりと符合した証だ。
それには、すべて『旅』 という根本的な自分自身のコンセプトが隠されていた。
それは今も変わってはいない。
子供の頃から、ボクは『旅』 一筋で生きてきた。
「外国語大学」、
「総合商社」、
「宿泊業」と携わる姿は違っても、
そこには全て『旅』 という共通理念が必ず内在している。
フリートークも然り。
ゲストハウス「ラブトリップ」に関しては、まさに宿泊業の名残りを潜ませた。
国内はもとより、
ボクの旅先は海外へと大きくシフトしている。
その中でどうしても避けて通れないのが、当然だが外国人との接触だ。
今、ボクにとって、外国人は単なる一期一会の存在を離れ、
生活を共にする存在へとその意義を増した。
仕事上の、生活上のパートナーとして。
その関係は事実上は雇い主と従業員と言えるかもしれないが、
ボクの中ではそういう位置づけではない。
ボクは人を雇うということをあまり好まない。
そこには主従関係が生まれるからだ。
むしろボクは、対等な関係を好む。
だから自主性に任せる。
ところが、日本人ときたら、
こと仕事に関しては他人依存が強いから自ら動こうとしない。
日本人体質の中には、指示待ち族、事勿れ主義が蔓延している。
多くの外国人にはその意識が希薄だ。
むしろ、如何に自分を表現するかに長けている。
その芽を摘み取ってしまったら、元も子もないではないか。
自分が好むと好まざるにかかわらず、
その個性、特徴を活かすべきだ。
だからボクは何も命令しない。
提案し、判断は相手に任せる。
明らかに日本人に接するときと、外国人に接する時では
ボクの考えは異なる。
外国人を日本人と同じように手懐(てなず)けることなどバカのやることだ、と思っている。
それでなくても、日本に住む多くの外国人は日本に同化しようと必死なのだ。
とくに「おもてなし」と呼ばれるサービス精神においてはお粗末そのものと言える。
だがそれは、身をもって教える、いわゆる背中で語れば彼らは自ずと理解する能力を持っている。
よく日本人は外国人を「あいつら」と表現することがある。
とくに海外においては顕著である。
何か特権意識を持つかのように、だ。
この意識を払拭しなけれbならない。
確かに、日本人は多くの外国から優秀性を持った目で見られる。
それは日本民族として誇りに思う。
(㊟ ただ、英語に関しては、世界中からバカにされているkとを忘れてはいけない)
だが、日本人が世界で秀でた民族であるを良いことに相手を蔑むようなことがあったら、
それは愚行の何者でもない。
それぞれのお国柄に特徴があるように、
人にも特徴、個性がある。
それを生かさず殺してしまったら無意味だ。
だから、彼らと接するときには
彼らをリスペクトすることから始めなければならない。
そして、思い切って任せることだ。
たとえ、例え自分のやり方、考え方と違ってもだ。
相手を信頼することだ。
「好きにやっていいよ」というと、
最初は戸惑う人もいるかもしれない。
ただ、結果を重要視することは忘れない。
すなわち成果を出すこと、つまり利益を上げることだ。
ここに暗黙の了解がある。
それは彼らのサラリーに無条件に反映するからだ。
利益を上げなければ淘汰される。
言うまでもない企業の論理だ。
それをわきまえ、実行に移せる者だけが残る。
だから、出勤時間も、休みも全て本人に一任している。
法を犯さなければ、あるいはスレスレでも何をやっても構わない。
要は、結果が重要視される。
それだけ厳しいのがグローバル社会(世界)なのだ。
そうしてもう一つ、心がけていることがある。
前のマネージャーと一切比較しないこと。
話題にもしないこと、だ。
彼は水を得た魚のように徐々に頭角を現してきた。
これこそがボクノ意図するところである。
【追記&補足】
今や海外(ハノイ)にも店を持つ身。
そこで働く人も、全て現地の人々(ベトナム人)である。
ドップリと外国人の中に身を置く自分を、
ボクは幸せ者だと感じ、
彼らの一人ひとりに感謝している。
ボクがいなくても、彼らは一生懸命考え、工夫してやってくれている。
海外展開はこれから勢いをますことは間違いない。
もちろん、国内においても然りである。
なお、題を「取説」としたのは
人に対しては不適切な言葉であると自覚している。
そのうえで、敢えて使ったのは、
一種の流行り(はやり)に沿っただけのことである。
ご理解いただきたい。
「外国人の取り説」まとめ:
① リスペクトする
② 任せる
③ 信頼する
④ 比べない
不思議なことに、
これは、ボクの子育ての論理とも一致する。