世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

思考というフルマラソン

2012年02月19日 | スポーツ




旅が人生に例えられるのと同じくらい




マラソンもまた


人生の縮図として語られる。







競技として


人との争いをする




ランナーはもちろん




市民ランナーにとっても





真に競う相手は




自分自身
だ。







限界への挑戦という



スポーツでありながら





思考し続けるという意味でも



稀有な競技であろう。







むしろ


思考せざるを得ないのだ。







隔絶された状況を作り出し



移りゆく風景の中で





苦しみながら




自分との孤独な対話を続ける。







「孤独感こそ



世の中で唯一の誠実さであり


現実であり、



けっして変わることがないという実感」








『長距離ランナーの孤独』


はいう。






時に


ゆっくりとした思考さえもできにくい



あわただしい現代であればこそ





こういう形で



自らを





孤独の谷間に追い込むのも


一つの手段かもしれない。






「人生とは簡単だ。



苦しむか




苦しまないかの選択だから」 




ともいわれる。







ただ



臨むと望まないにかかわらず





人生は



苦しみの連続である。










そして



人生のゴールは



一人の例外もなく







『死』


である。







42,195キロのマラソンと違い





人生のマラソンでは


距離を自分で決めることはできない。









伴走者や



沿道の応援も





あるやなしや。







もし仮に



人生の距離が




100キロであるとするなら





ボクは今



62,195キロあたりを走っているのだろう。






ユックリ、ユックリと。







過去にいた


伴走者は




ふと気が付けば


離れていってしまっていた。







幸い


今は



自由と孤独



たしなむ境地。








沿道の応援者は



ちらりほらり。








孤独な長距離ランナー



それでも




自ら選んだ


その孤独を味わいつつ





自由という空間を漂いながら





ひたすら




というゴールに向かって



走り続ける。





空しい思考を



繰り返しながら。








【追記】



先ほど



熊本城マラソンの号砲が鳴った。






スタート地点にほど近い


誰もいないマンションの一室で




このブログを記している。






隔絶された空間で



思考を巡らしながら。






人生のマラソンの現実とは



こうしたものなのだ。
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