シアヌーク前国王陛下ご逝去の報に接し、衷心より哀悼の意を表します。
波乱の人生を送られたノロドム・シアヌーク前国王陛下が、10月15日に北京で逝去されました。89才でした。
少々長くなりますが、前国王陛下は、カンボジアの歴史そのものですので、その歴史をさかのぼってみたいと思います。
1922年10月31日 ノロドム・スラマリット国王とシソワット・コサマック皇后の間に生まれる。
1941年4月23日 カンボジア国王となる。(当時はフランス植民地時代)
1945年 日本軍が撤退時にカンボジアを独立国家とするが、日本敗戦により、再びフランス領とされる。前国王陛下は日本のこの対応を後の独立に欠かせないものとして後々まで感謝したと言われている。
1953年11月9日 「王国十字軍」と呼ばれる前国王陛下による世界各国を回る行脚の末、フランスからの独立を達成。前国王陛下は独立への日本の協力を高く評価されていた。なお、同年に生まれたシアモニ王子(現国王陛下)の幼名を「トーキョー」と命名され、日本への感謝を示されている。
1955年3月2日 政界に進出することを決意し、国王を退位し、父であるスラマリット前国王に譲位する。(この後は、「シアヌーク殿下」と呼ばれる)
1955年9月 首相に選出される。この後、外交的には中立、政治的には社会主義を取り入れた体制を目指す。
1970年3月 アメリカの支援を受けたロン・ノル将軍のクーデターで国を追われる。アメリカはベトナム戦争の真最中であり、南ベトナム・アメリカのいうことを聞かないシアヌーク殿下に反発を強めていた。
1975年4月 シアヌーク殿下は、ロン・ノル派を追い出すために中国の支援を求める。この年、中国の支援を受けたポル・ポト派がロン・ノル派を破り、政権を取る。
1976年4月 ポル・ポト派により王宮に幽閉される。この後のポル・ポトによる大虐殺で、殿下御自身の子供5人を含む王族多数が殺害されてしまう。
1978年 ベトナムの支援を受けたヘンサムリン派(フン・セン首相も含まれている)が、カンボジアに侵攻する。シアヌーク殿下はこの際にプノンペンを脱出。アメリカに逃れる。
1979年 ベトナムと戦うため、敵であったポル・ポト派、ロン・ノル派と3派連合を組む。その後の泥沼の内戦を招いたとも言われるが、自分の子供を殺した「昨日の敵」を「今日の友」としたものであり、大胆な決意と評価されている。
1991年 パリ和平会議。日本の「和平工作」を高く評価される。
1992年 再び国王の地位に就く。
1993年 フンシンペック党を実質的に率いて総選挙で勝つ。息子のノロドム・ラナリット殿下とフン・セン首相の二人首相体制を構築する。
2004年 国王を退位し、シハモニ国王陛下に譲位する。
2012年10月5日 逝去
前国王陛下こそ「修羅場を潜った大人物」と言えましょう。国を統べるという重い責務の下で、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、面子を捨て、必要ならどんな妥協でもする一方で、国への愛は決して曲げない、その決断と人生は、常人からは想像もつかないものであったと思います。その一方で、芸術への造詣も深く、映画の製作を行ったり、様々な斬新なデザインの建物を建築されたりしています。日本語でカラオケを歌われることもあったと言われ、本当に親しみやすい国王陛下であられたとのことです。心からご冥福をお祈り申し上げます。
なお、前国王陛下のご遺体は、10月17日に中国からプノンペンに到着し、100万人とも言われる多くの国民が出迎えました。10月17日から23日までは公式服喪期間で、プノンペンのあちこちに半旗が掲げられています。更に、100日間の喪に服した後で、国葬が営まれる予定です。この間、前国王陛下のご遺体は王宮内に安置され、多くの方々がご遺体に拝謁できるようにしたいとのことです。
(写真は、プノンペンの街のあちこちで見られる御遺影。)
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波乱の人生を送られたノロドム・シアヌーク前国王陛下が、10月15日に北京で逝去されました。89才でした。
少々長くなりますが、前国王陛下は、カンボジアの歴史そのものですので、その歴史をさかのぼってみたいと思います。
1922年10月31日 ノロドム・スラマリット国王とシソワット・コサマック皇后の間に生まれる。
1941年4月23日 カンボジア国王となる。(当時はフランス植民地時代)
1945年 日本軍が撤退時にカンボジアを独立国家とするが、日本敗戦により、再びフランス領とされる。前国王陛下は日本のこの対応を後の独立に欠かせないものとして後々まで感謝したと言われている。
1953年11月9日 「王国十字軍」と呼ばれる前国王陛下による世界各国を回る行脚の末、フランスからの独立を達成。前国王陛下は独立への日本の協力を高く評価されていた。なお、同年に生まれたシアモニ王子(現国王陛下)の幼名を「トーキョー」と命名され、日本への感謝を示されている。
1955年3月2日 政界に進出することを決意し、国王を退位し、父であるスラマリット前国王に譲位する。(この後は、「シアヌーク殿下」と呼ばれる)
1955年9月 首相に選出される。この後、外交的には中立、政治的には社会主義を取り入れた体制を目指す。
1970年3月 アメリカの支援を受けたロン・ノル将軍のクーデターで国を追われる。アメリカはベトナム戦争の真最中であり、南ベトナム・アメリカのいうことを聞かないシアヌーク殿下に反発を強めていた。
1975年4月 シアヌーク殿下は、ロン・ノル派を追い出すために中国の支援を求める。この年、中国の支援を受けたポル・ポト派がロン・ノル派を破り、政権を取る。
1976年4月 ポル・ポト派により王宮に幽閉される。この後のポル・ポトによる大虐殺で、殿下御自身の子供5人を含む王族多数が殺害されてしまう。
1978年 ベトナムの支援を受けたヘンサムリン派(フン・セン首相も含まれている)が、カンボジアに侵攻する。シアヌーク殿下はこの際にプノンペンを脱出。アメリカに逃れる。
1979年 ベトナムと戦うため、敵であったポル・ポト派、ロン・ノル派と3派連合を組む。その後の泥沼の内戦を招いたとも言われるが、自分の子供を殺した「昨日の敵」を「今日の友」としたものであり、大胆な決意と評価されている。
1991年 パリ和平会議。日本の「和平工作」を高く評価される。
1992年 再び国王の地位に就く。
1993年 フンシンペック党を実質的に率いて総選挙で勝つ。息子のノロドム・ラナリット殿下とフン・セン首相の二人首相体制を構築する。
2004年 国王を退位し、シハモニ国王陛下に譲位する。
2012年10月5日 逝去
前国王陛下こそ「修羅場を潜った大人物」と言えましょう。国を統べるという重い責務の下で、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、面子を捨て、必要ならどんな妥協でもする一方で、国への愛は決して曲げない、その決断と人生は、常人からは想像もつかないものであったと思います。その一方で、芸術への造詣も深く、映画の製作を行ったり、様々な斬新なデザインの建物を建築されたりしています。日本語でカラオケを歌われることもあったと言われ、本当に親しみやすい国王陛下であられたとのことです。心からご冥福をお祈り申し上げます。
なお、前国王陛下のご遺体は、10月17日に中国からプノンペンに到着し、100万人とも言われる多くの国民が出迎えました。10月17日から23日までは公式服喪期間で、プノンペンのあちこちに半旗が掲げられています。更に、100日間の喪に服した後で、国葬が営まれる予定です。この間、前国王陛下のご遺体は王宮内に安置され、多くの方々がご遺体に拝謁できるようにしたいとのことです。
(写真は、プノンペンの街のあちこちで見られる御遺影。)
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