内戦後のカンボジアで1993年4月、国連ボランティアとして選挙監視に赴いた中田厚仁さんが凶弾に倒れて、4月8日で30年が経ちました。当時25歳だった中田厚仁さんは、国連のボランティアとしてカンボジアの総選挙を支援していた最中に、銃撃され、亡くなられました。父の武仁さんは、厚仁さんが凶弾に倒れた直後、「身を捨てても、やるべきことを息子はした」と語りました。更に、厚仁さんの遺志を継ごうと、当時、勤めていた商社を辞め、国連機関の1つ、「国連ボランティア計画」の名誉大使となって世界各地を訪れ、ボランティアや平和の大切さを訴えていましたが、2016年に亡くなられています。事件後、中田さんが亡くなったカンボジア中部コンポントム州の現場周辺には「ナカタアツヒト村」ができ、小中学校や職業訓練校が相次いで設立されました。お二人のご冥福をお祈り申し上げます。
4月8日には、植野篤志大使が、プノンペンのウナロム寺院にある中田厚仁氏の慰霊碑に献花しました。また、日本では、京都芸術大学、外務省、国連ボランティア計画が、「中田厚仁30年平和フォーラム」を開催しました。
日本は、国際平和への積極的貢献を行うため、1992年の通常国会で「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)を可決しました。国会審議では、当時の社会党や共産党が理不尽な反対行動を行うとともに、多くの条件を求めたこともあり、その後の現場の手足を縛る結果となり、1993年には文民警察官と国連ボランティアとして活動にあたっていた2人の日本人が襲撃されて死亡しました。
カンボジアのために命を懸けた日本人がいたことを決して忘れてはならないと強く思っております。また、日本の国際貢献活動が、カンボジアの復興に大きく貢献したこと、そして多くのカンボジアの方々が日本に感謝していることもぜひ強調しておきたいと思います。これまでの関係者の方々の献身的な努力に敬意を表します。
(写真は、PKOに参加した自衛隊。外務省のサイトより)
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4月8日には、植野篤志大使が、プノンペンのウナロム寺院にある中田厚仁氏の慰霊碑に献花しました。また、日本では、京都芸術大学、外務省、国連ボランティア計画が、「中田厚仁30年平和フォーラム」を開催しました。
日本は、国際平和への積極的貢献を行うため、1992年の通常国会で「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)を可決しました。国会審議では、当時の社会党や共産党が理不尽な反対行動を行うとともに、多くの条件を求めたこともあり、その後の現場の手足を縛る結果となり、1993年には文民警察官と国連ボランティアとして活動にあたっていた2人の日本人が襲撃されて死亡しました。
カンボジアのために命を懸けた日本人がいたことを決して忘れてはならないと強く思っております。また、日本の国際貢献活動が、カンボジアの復興に大きく貢献したこと、そして多くのカンボジアの方々が日本に感謝していることもぜひ強調しておきたいと思います。これまでの関係者の方々の献身的な努力に敬意を表します。
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