池の鶴
わがやどの いけにのみすむ つるなれば ちとせのなつの かずはしるらむ
わが宿の 池にのみ住む 鶴ならば 千歳の夏の 数は知るらむ
池の鶴
わが家の池にずっと住んでいる鶴であるから、千年にも及ぶ過ごした夏の数も知っていることであろう。
第二句「のみ」は現代では専ら限定の意で用いますが、ここでは強調の意ですね。
池の鶴
わがやどの いけにのみすむ つるなれば ちとせのなつの かずはしるらむ
わが宿の 池にのみ住む 鶴ならば 千歳の夏の 数は知るらむ
池の鶴
わが家の池にずっと住んでいる鶴であるから、千年にも及ぶ過ごした夏の数も知っていることであろう。
第二句「のみ」は現代では専ら限定の意で用いますが、ここでは強調の意ですね。
五月五日
とりのねは あまたあれども ほととぎす なくなるこゑは さつきなりけり
鳥の音は あまたあれども 時鳥 鳴くなる声は 五月なりけり
五月五日
鳥の鳴く声は数々あるけれども、時鳥の鳴く声が聞こえると、五月になったのだなあと思う。
時鳥の声で五月になったことを知るという歌は 228 にもありましたね。
ほととぎす こゑききしより あやめぐさ かざすさつきと しりにしものを
時鳥 声聞きしより あやめ草 かざす五月と 知りにしものを
撫子
ながけくに いろをそめつつ はるもあきも しらでのみさく とこなつのはな
長けくに 色をそめつつ 春も秋も 知らでのみ咲く 常夏の花
撫子
長い間に色を染めてきて、春も秋も知らない常夏の花が咲いている。
撫子の別名「常夏」から、春も秋も知らずに咲くと発想しての詠歌ですね。実際には品種にもよって4~11月にかけて花をつけるようですが、盛りは8~9月というところのようです。
時鳥
あけくるる つきひあれども ほととぎす なくこゑにこそ なつはきにけれ
明け暮るる 月日あれども 時鳥 鳴く声にこそ 夏はきにけれ
時鳥
明けては暮れる月日はあるけれども、時鳥の鳴く声にこそ、夏が来たことを実感できるものであるよ。
最後の「けれ」は詠嘆の助動詞「けり」の已然形。それまで気付かずにいたことに、初めて気付いた気持ちを表しています。
池のほとりに咲ける藤、舟に乗りて遊び見る
こぎかへり みれどもあかず わかれにし はるのなごりの ふぢなみのはな
漕ぎかへり 見れどもあかず 別れにし 春のなごりの 藤波の花
池のほとりに咲いている藤を、舟遊びをしながら見る
舟を戻していくら見ても飽きることがない。去ってしまった春との別れの名残の藤の花は。
第四句「なごり」は、歌意としては「名残」の方ですが、同音の「余波」がかかっており、それが「藤波」の縁語ともなっています。