やもめなる人の家
つれづれと としふるやどは うばたまの よもひもながく なりぬべらなり
つれづれと 年ふる宿は うばたまの 夜も日も長く なりぬべらなり
やもめ暮らしの人の家
やもめ暮らしですることもなく年を過ごしてゆく家では、夜も昼も長く感じられることよ。
「うばたまの」のは「夜」にかかる枕詞。
やもめなる人の家
つれづれと としふるやどは うばたまの よもひもながく なりぬべらなり
つれづれと 年ふる宿は うばたまの 夜も日も長く なりぬべらなり
やもめ暮らしの人の家
やもめ暮らしですることもなく年を過ごしてゆく家では、夜も昼も長く感じられることよ。
「うばたまの」のは「夜」にかかる枕詞。
神の社に詣でたる
いがきにも まだいらぬほどは ひとしれず わがおもふことを かみやしらなむ
斎垣にも まだ入らぬほどは 人しれず わが思ふことを 神や知らなむ
神の社に詣でる
斎垣の中にまだ入らないうちは、人知れず思っている私の胸中を、神には察してほしいものだ。
斎垣に入ったらではなく「入らぬほどは」神に知ってほしいというのは、神域では色恋沙汰は許されないからということのようです。感覚的には「神社にお詣りに来たときくらいは神様に知ってほしい」という方がしっくりきますが、現代人との感覚の違いなのかもしれませんね。
田のなかに小鷹狩りしたる
ひともみな われならねども あきのたの かりにぞものを おもふべらなる
人もみな われならねども 秋の田の かりにぞものを 思ふべらなる
田の中で小鷹狩りをしている
秋の田で刈り取りをしている人も、小鷹狩りをしている私とは違った思いであろうけれども、みな、仮の世のもの思いにふけっているようであるよ。
「かり」に「刈り」「狩り」「仮」の三重の意味を持たせた詠歌ですね。
つきかげも ゆきかとみつつ ひくことの きえてつめども しらずやあるらむ
月影の 雪かと見つつ 弾く琴の 消えてつめども 知らずやあるらむ
月の光を雪かと見ながらあなたが弾く琴を聞くと、その音は次々と空に消えては月光の雪と一体となって積もって行くのに、琴を弾くあなたはそれをご存知ないのでしょう。
凛とした寒い月夜に静かに響く琴の音。とても幻想的な情景が浮かんで来ますね。