道行く人、桜の花を見て馬をとどむ
ゆくすゑも しづかにみべき はななれど えしもみすぎぬ さくらなりけり
行く末も しづかに見べき 花なれど えしも見すぎぬ 桜なりけり
道行く人が、桜の花を見て馬をとめている
行く末までも静かに見るべき花なので、急ぎの道中にあってもどうしも見過ごすことができずに馬ととめて見入ってしまう桜であるよ。
少し言葉をおぎなって解釈してみました。桜を見かけるとつい足をとめてしまう感覚はとてもよくわかりますね ^^
道行く人、桜の花を見て馬をとどむ
ゆくすゑも しづかにみべき はななれど えしもみすぎぬ さくらなりけり
行く末も しづかに見べき 花なれど えしも見すぎぬ 桜なりけり
道行く人が、桜の花を見て馬をとめている
行く末までも静かに見るべき花なので、急ぎの道中にあってもどうしも見過ごすことができずに馬ととめて見入ってしまう桜であるよ。
少し言葉をおぎなって解釈してみました。桜を見かけるとつい足をとめてしまう感覚はとてもよくわかりますね ^^
承平五年九月、東三条の親王の清和の七の親王の御息所の八十賀せらるるとき、屏風の歌
若菜摘めるところ
ちはやぶる かみたちませよ きみがため つむかすがのの わかななりけり
ちはやぶる 神たちませよ 君がため 摘む春日野の 若菜なりけり
承平五年(935年)、東三条の親王が、清和の七の親王の母の八十歳の祝賀を催されたときの屏風歌
神々よご降臨なさいませ。御息所のために摘む春日野の若菜なのですから。
承平五年といえば、貫之が土佐から京に帰任した年で、帰任は二月のことと言いますから、土佐での勤めを終えて京に戻った後に詠まれた歌ということになります。以降、貫之集第四の終わりまで、土佐からの帰任後の承平・天慶年間の屏風歌が続きます。
「東三条の親王」は醍醐天皇の子重明親王、「清和の七の親王」は清和天皇の第七皇子貞辰親王のこと。「御息所」には、后・母の両方の意味がありますが、ここでは後者ですね。
しらくもの たなびきわたる あしひきの やまのたなはし われもわたらむ
白雲の たなびきわたる あしひきの 山の棚橋 われもわたらむ
白雲がずっとたなびいている山の棚橋を私も渡ろう。
「あしひきの」は「山」にかかる枕詞。「棚橋」は、棚板のようにただ板を渡しただけの手すりのない橋のことです。渡るのは怖かったでしょうね。^^;;;
この歌は、新古今和歌集(巻第十「羇旅」 第906番)に入集していますが、そちらでは下二句が「やまのかけはし けふやこえなむ」とされています。
くれなゐの しぐれなればや いそのかみ ふるたびごとに のべのそむらむ
紅の しぐれなればや いそのかみ ふるたびごとに 野辺のそむらむ
まるで紅の時雨が降っているかのように、時雨が降るたびに野辺の紅葉が濃く色づいている。
「いそのかみ」は「石上」で、今の奈良県天理市の「布留」と呼ばれる地域の古称。「ふる」との音から、「古」「降る」などの枕詞として使われます。このあと 575 にも登場する他、古今和歌集にも五首例があり、うち一首は貫之の入集歌となっていますね。
本歌は、新千載和歌集(巻第五「秋下」 第574番)に入集しています。
いそのかみ ふるのなかみち なかなかに みずはこひしと おもはましやは
石上 ふるの中道 なかなかに 見ずは恋しと 思はましやは
みえねども わすれじものを むめのはな けさはゆきのみ ふりかかりつつ
見えねども 忘れじものを 梅の花 今朝は雪のみ 降りかかりつつ
まだ咲いていなくても梅の花を忘れることはないが、今朝は雪が次々と降りかかって、たくさんの花が咲いたかのようだ。
第二句は文法的には「忘れざるものを」とすべきかと思いますが、和歌の字数制限(?)の中でこうした表現になっているというところでしょうか。