はるがすみ たつをみすてて ゆくかりは はななきさとに すみやならへる
春霞 立つを見すてて ゆく雁は 花なき里に すみやならへる
伊勢
春霞が立つのにそれを見捨てて行ってしまう雁は、花のない里に住み慣れているのでありましょうか。
作者の伊勢は平安時代の女性歌人で三十六歌仙の一人。古今和歌集にも22首と多くの歌が入集していて、そのうち1,001番は古今集全体で5首しか採録のない長歌です。22首という数は、女流歌人では最多で、また、古今集には入っていませんが、百人一首にも
なにはがた みじかきあしの ふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
(難波潟の芦の、その短い節と節の間のようなほんのわずかな間も逢わないままにこの世を終えてしまえと、あなたは私に言うのでしょうか。)
という激しい恋情を綴った歌が採録されていますね。情熱的な恋歌で知られる歌人です。
はるくれば かりかへるなり しらくもの みちゆきぶりに ことやつてまし
春くれば 雁かへるなり 白雲の 道ゆきぶりに ことやつてまし
凡河内躬恒
春が来れば、雁が北へと帰っていく。その白雲の道中に言伝を託してみようか。
遠く北の国に行ってしまった人(友人でしょうか)に、そちらの方向に飛んで行く雁に託してでも言葉だけでも届けたいという思い。
作者の凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は古今和歌集の撰者の一人で、三十六歌仙にも名を連ねる大歌人。古今集には60首が入集していて、百人一首(第29番)にも採られた 0277 は有名。
こころあてに をらばやをらむ はつしもの おきまどはせる しらぎくのはな
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
個人的には、0041 の次の歌が何とも言えず好きです。
はるのよの やみはあやなし うめのはな いろこそみえね かやはかくるる
春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる
をちこちの たづきもしらぬ やまなかに おぼつかなくも よぶこどりかな
をちこちの たづきもしらぬ 山なかに おぼつかなくも よぶこどりかな
よみ人知らず
あちらかこちらかの手がかりもない山中で、不安そうに鳴く呼子鳥であるよ。
「呼子鳥」とは、カッコウのことであるとの説が有力ですが、他にもウグイスやホトトギスなどの諸説があり、猿のことだとする珍説(?)もあるようです。ひとつ前の 0028 に出てきた「ももちどり」とこの「よぶこどり」、さらに「いなおおせどり」の3つを総称して「古今伝授三鳥」と言われますが、この3つとも具体的にどんな鳥のことなのかはわかっていません。
ももちどり さへづるはるは ものごとに あらたまれども われぞふりゆく
ももちどり さへづる春は ものごとに あらたまれども われぞふりゆく
よみ人知らず
たくさんの種類の鳥がさえずる春は、もの皆あらたまる季節であるのに、その中で私は年老いていくばかりだ。
多くのものが新しい命を授かって輝くような春という季節のきらめきと、それとは裏腹に着実に老いが忍び寄ってくるわが身との対比。
あさみどり いとよりかけて しらつゆを たまにもぬける はるのやなぎか
あさみどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か
僧正遍昭
浅緑色の縒り糸を玉に通しているかのように、白露を貫いている春の柳であるよ。
柳の枝を糸に、そこについている白露を玉に見立てて詠んだ歌。
作者の僧正遍昭は六歌仙、三十六歌仙の両方に名を連ねている歌の名人。古今和歌集にも14首が入集していますが、「仮名序」に記された貫之の遍昭評は「歌のさまは得たれどもまことすくなし(歌の趣向は良いが真情にとぼしい)」ということでなかなかの酷評。六歌仙の他の歌人に対しても「心あまりてことばたらず」(業平評)とか、「ことばたくみにてそのさま身におはず」(文屋康秀評)、「そのさまいやし」(大友黒主評)などなどといった具合です。まあ、何かそれまでと異なる新しいことを始めようとする人が、前時代の大家を辛辣に批判するのは世の常。900年の時を経て貫之自身が正岡子規に悪しざまにこき下ろされたのも、その類のことと言えるでしょうか。