やまざとは もののわびしき ことこそあれ よのうきよりは すみよかりけり
山里は もののわびしき ことこそあれ 世の憂きよりは 住みよかりけり
よみ人知らず
山里は、何かともの寂しいということはあっても、俗世のつらい暮らしに比べれば住みやすいところであるよ。
作者は山深い場所で隠遁生活をしているといったところでしょうか。ここから、隠遁や厭世観を詠んだ歌が続きます。
やまざとは もののわびしき ことこそあれ よのうきよりは すみよかりけり
山里は もののわびしき ことこそあれ 世の憂きよりは 住みよかりけり
よみ人知らず
山里は、何かともの寂しいということはあっても、俗世のつらい暮らしに比べれば住みやすいところであるよ。
作者は山深い場所で隠遁生活をしているといったところでしょうか。ここから、隠遁や厭世観を詠んだ歌が続きます。
よのなかに いづらわがみの ありてしなし あはれとやいはむ あなうとやいはむ
世の中に いづらわが身の ありてなし あはれとやいはむ あな憂とやいはむ
よみ人知らず
世の中に、さあどのようにわが身は存在しているのかいないのか。この世は良いものだと言おうか、ああ辛いと言おうか。
この世に常住不変なるものはなく、そもそもこの世それ自体の存在も確かなものではないという仏教思想を詠んだ歌とされているようです。
よのなかは ゆめかうつつか うつつとも ゆめともしらず ありてなければ
世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ
よみ人知らず
この世の中は夢なのか現実なのか。現実とも夢ともわからない。存在していると同時に無であるのだから。
他の多くの古今集歌とは異なる、哲学的な歌ですね。存在と無の同一性はヘーゲル、ハイデガーの思想が有名ですが、ヘーゲルは19世紀、ハイデガーは20世紀の哲学者で、それより1000年前の古今集にこのような歌があるということには、とても驚かされました。特定の誰かがどこかでこの思いに至ったというより、誰しもがその奥底に持っている思想なのかもしれませんね。
よのなかの うきもつらきも つげなくに まづしるものは なみだなりけり
世の中の 憂きもつらきも つげなくに まづ知るものは 涙なりけり
よみ人知らず
世の中が悲しいとかつらいとかを誰にも告げていないのに、そのことをまっさきに知るものは涙なのであった。
つらいとき悲しいとき、仮にそうでないふりをしたとしても、涙はそれをわかっていて自然に流れて来るという歌ですね。
あはれてふ ことのはごとに おくつゆは むかしをこふる なみだなりけり
あはれてふ 言の葉ごとに 置く露は 昔を恋ふる 涙なりけり
よみ人知らず
「あはれ」という言葉を発するたびに置く露は、昔を恋しく思う涙なのであった。
意味内容からすれば、「昔を思って涙する」というだけの歌ですが、「言の葉」の「葉」という表現に着目して涙をその「葉」につく「露」と見たてたところに味わいがあります。とても「古今集的」な歌と言えるでしょうか。