流浪オヤジの探検日記

KOBEを拠点に各種イベントや名所・旧跡を見て歩き、紹介していきます。

福知山城

2019-11-08 | 史跡・旧跡
京都府福知山市字内記にある「福知山城」を訪れました。

福知山城は、明智光秀が天正7年(1579年)頃、当地に城を築いた事から始まります。
光秀は築城後、娘婿の明智秀満を城代として入れ、当地の統治を任せました。


江戸時代以降、転封や改易により城主が頻繁に代わりましたが、寛文9年(1669年)に朽木稙昌(くつきたねまさ)が常陸国土浦から入部した以降は、
明治維新に至るまで朽木氏が13代にわたり藩主を務めました。


「銅門番所」(どうもんばんしょ)


福知山市内が展望できました。(^_^)


「天守閣」
廃藩置県後の明治4年(1871年)によって廃城となり、明治6年(183年)の廃城令によって解体。
昭和57年(1982年)、当時の塩見精太郎・福知山市長が天守再建の意向を示し、再建(郷土資料館建設)期成会が発足。
寄付を募る『瓦一枚運動』などで寄付金を集め、一般寄付金、国庫補助、京都府補助等を合わせて、再建事業が行われました。
昭和60年(1985年)に小天守と続櫓が完成、昭和61年(1986年)には大天守(郷土資料館)が完成しました。
昭和61年(1986年)11月9日に竣工式を行い、11月10日に開館しました。


「福知山城石垣の転用石」
石仏、石臼、灯籠などの石像物が大量に石材として利用されました。
これらを転用席(てんようせき)と呼ばれています。


「朝暉神社」(あさひじんじゃ)
寛文9年(1669年)6月に入部した福知山初代藩主・朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことが始まり。
11代藩主・綱條(つなえだ)の際に一社を建立して朝暉神社と号しました。
廃藩により城外に移されましたが、明治14年(1881年)に町民らの要望により天守台跡に再建されました。
さらに昭和61年(1986年)の天守再建にともなって、現在の位置に移築されました。


「鉄砲石」
鉄砲の名手・牧重郎左衛門の技量を後世に伝えるため、城主・松平忠房が建てた記念碑です。
他の場所に放置されていたのを当地に移設しました。


「豊磐井」(とよいわのい)
城主・朽木稙昌の父朽木稙綱の神号『豊磐稙綱命』にちなんだ井戸です。
深さ50メートル、海面下7メートルに達しています。
高所に関わらず水深37メートルもあり、現在も満々と水をたたえているとのこと。


「福知山城天守閣復元鯱瓦」(しゃちがわら)/平成18年10月1日
高さ:150センチ、基部たて:80センチ、よこ:45センチ


復元された天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型とのこと。
外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。


天守閣内部は、明智(あけち)氏及び朽木(くつきた)氏の関連資料が展示されています。


明智光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。


現代に至る福知山市の市街は、光秀が築城を行い、城下町を整理したことに始まるとのこと。
当地では、『福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ』と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっています。


「福知山城郭模型」
市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から『臥龍城』の別名があります。


「南蛮胴具足」(複製)
明智光春所用と伝えられる東京国立博物館所蔵の南蛮胴具足を模して作成されました。


「石落とし鉄砲狭間弓狭間」


「福知山城大鬼瓦」(原寸大)


明智光秀仕様の飲料水自動販売機です。


明智光秀は悲劇的な最後を迎えましたが、福知山の民衆は光秀の業績を忘れることなく信奉し、『名君』として現在に至っています。

福知山城を通して、当地の歴史を知る事ができました。
また城下町福知山を築いた明智光秀氏の業績を再認識しました。
ありがとうございました。
☆゚.+゚o(>Д<。*)ノ゚+.★ァリガトォ★゚+.ヽ(*。>Д<)o゚+.゚☆

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 福知山鉄道館 ポッポランド2... | トップ | JR西日本・福知山駅 »

コメントを投稿

史跡・旧跡」カテゴリの最新記事