西宮市西波止町字西波止に「西宮砲台」があります。
当地は、江戸時代末期に建設された砲台の跡地です。
国の史跡に指定されています。
標柱石「史蹟西宮砲臺」
大正11年(1922年)3月8日、国の史跡に指定(内務大臣指定史跡)
大正12年(1923年)3月、国の史蹟指定に伴い標柱石を設置
幕末の頃、国防に不安を感じていた江戸幕府は、将軍徳川家茂の時代になり勝海舟の建議を取り入れます。
文久3年(1863年)、大坂湾の海防のために和田岬砲台、舞子砲台、今津砲台などと共に砲台の建設が開始されました。
基礎工事(地杭打ち)では、1,541本の松杭が打ち込まれました。
建設に必要な御影石(花崗岩)は、主に備中小田郡の島々(現在:岡山県笠岡市)より切り出し、海路にて運搬されました。
熟練工を多く招集し突貫工事で建設が進められ、慶応2年(1866年)に竣工。
完成後、空砲を試し撃ちしたが砲煙が内部に充満してしまい、結局実用には向かず一度も使われないままに明治を迎えることとなります。
その後、当時の西宮町(現在:西宮市)は、砲台を所有する陸軍省に対し再三払い下げを申請したが不許可となります。
明治40年代、阪神電鉄へ払い下げられ、香櫨園浜遊園の一部として利用されました。
砲台内部は、明治17年に焼損。
その後、昭和49年に修復工事が始まり、倒壊しないように鉄骨で補強されています。
「砲台(全体)」
高さ約12m、内径約17m、壁厚1.21m(1階底部1.53m)の石造円堡。
外壁は漆喰仕上げ、内部は3層となっています。
1階は床叩土、中央に防火用(もしくは砲身冷却用)の井戸が掘られ、床板敷の弾薬庫が設けられていました。
2階は木造で側面に砲眼が11個、北側に外部より指示を受けるための窓が1個開いており、大砲2門を設置し筒口を四方に向ける装備でした。
「砲眼(開口部)」(ほうがん)
砲弾を発射するための穴です。
残念ながら、砲台は柵に囲まれており内部は公開されていません。
今後に期待しましょう。
当地において、幕末における政情を知ることが出来ました。
ありがとうございました。
ヾ(*´∪`*)oc<【。゚・+:.・ァリガトゥゴザィマシタ・.:+・゚。】ヽ(*´∪`*)ノ"
<<砲台周辺>>
砲台に関係した石材であるかは不明でした。
「供養塔」(昭和十三年八月建立)
昭和13年(1938年)7月3日から7月5日にかけて、神戸市及び阪神地区で発生した『阪神大水害』における犠牲者への供養塔です。
同地域では、阪神・淡路大震災(平成7年(1995年)1月17日)と並び語られる自然災害とのこと。
「御前浜・香櫨園浜」
明治40年、阪神電気鉄道(株)による沿線開発の一環として、当地において海水浴場が開設されました。
昭和40年、高度経済成長期において沿岸域の開発や下水・工場廃液の放流などによって次第に海水が汚染され、海水浴場は閉鎖されました。
現在は、散歩やジョギングを楽しんだり、冬は凧揚げ大会、夏は芦屋花火大会の場所見学として利用されています。
当地は、江戸時代末期に建設された砲台の跡地です。
国の史跡に指定されています。
標柱石「史蹟西宮砲臺」
大正11年(1922年)3月8日、国の史跡に指定(内務大臣指定史跡)
大正12年(1923年)3月、国の史蹟指定に伴い標柱石を設置
幕末の頃、国防に不安を感じていた江戸幕府は、将軍徳川家茂の時代になり勝海舟の建議を取り入れます。
文久3年(1863年)、大坂湾の海防のために和田岬砲台、舞子砲台、今津砲台などと共に砲台の建設が開始されました。
基礎工事(地杭打ち)では、1,541本の松杭が打ち込まれました。
建設に必要な御影石(花崗岩)は、主に備中小田郡の島々(現在:岡山県笠岡市)より切り出し、海路にて運搬されました。
熟練工を多く招集し突貫工事で建設が進められ、慶応2年(1866年)に竣工。
完成後、空砲を試し撃ちしたが砲煙が内部に充満してしまい、結局実用には向かず一度も使われないままに明治を迎えることとなります。
その後、当時の西宮町(現在:西宮市)は、砲台を所有する陸軍省に対し再三払い下げを申請したが不許可となります。
明治40年代、阪神電鉄へ払い下げられ、香櫨園浜遊園の一部として利用されました。
砲台内部は、明治17年に焼損。
その後、昭和49年に修復工事が始まり、倒壊しないように鉄骨で補強されています。
「砲台(全体)」
高さ約12m、内径約17m、壁厚1.21m(1階底部1.53m)の石造円堡。
外壁は漆喰仕上げ、内部は3層となっています。
1階は床叩土、中央に防火用(もしくは砲身冷却用)の井戸が掘られ、床板敷の弾薬庫が設けられていました。
2階は木造で側面に砲眼が11個、北側に外部より指示を受けるための窓が1個開いており、大砲2門を設置し筒口を四方に向ける装備でした。
「砲眼(開口部)」(ほうがん)
砲弾を発射するための穴です。
残念ながら、砲台は柵に囲まれており内部は公開されていません。
今後に期待しましょう。
当地において、幕末における政情を知ることが出来ました。
ありがとうございました。
ヾ(*´∪`*)oc<【。゚・+:.・ァリガトゥゴザィマシタ・.:+・゚。】ヽ(*´∪`*)ノ"
<<砲台周辺>>
砲台に関係した石材であるかは不明でした。
「供養塔」(昭和十三年八月建立)
昭和13年(1938年)7月3日から7月5日にかけて、神戸市及び阪神地区で発生した『阪神大水害』における犠牲者への供養塔です。
同地域では、阪神・淡路大震災(平成7年(1995年)1月17日)と並び語られる自然災害とのこと。
「御前浜・香櫨園浜」
明治40年、阪神電気鉄道(株)による沿線開発の一環として、当地において海水浴場が開設されました。
昭和40年、高度経済成長期において沿岸域の開発や下水・工場廃液の放流などによって次第に海水が汚染され、海水浴場は閉鎖されました。
現在は、散歩やジョギングを楽しんだり、冬は凧揚げ大会、夏は芦屋花火大会の場所見学として利用されています。
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