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PTBD(経皮的胆道ドレナージ) ~その2

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<・・・一年前>

・・・2006年 5月24日


放射線科の説明書曰く、

【皮膚の局所麻酔をしてから超音波で確認しながら胆管を針で穿刺し、管
を胆管内に挿入します。
・・・中略・・・
最後に管を糸やテープで固定して処置が終わります。】


要するに、「脇腹に穴を開けます、管を通します、皮膚を縫って固定しま
す。すごく痛いですよ。危険も伴いますからね。」

という事だ。

事前に放射線科で詳しい説明を受けたが、最初はどうにも理解できなか
った。
ただ、他の患者さんの情報で痛いことだけはわかっていた。つもりだった。

でも麻酔はするんだし、今までも散々痛い目に遭ってきたんだから、と、
そして多くの患者さんがやっている事だし、あまり深刻には考えていなか
った。


この検査の目的は、通りの悪くなった胆管が、自然軽快しなくなった場合、
強制的に胆汁を体外に排出させる為のもの。

このPTBDを含めて、説明では良く「検査」という言葉が使われるが、
穴を開けて、縫って、ってそれはもう充分手術だと思う。

他にも「検査」と名の付くものがあって、何度も惑わされた。

何が「検査」で、何が「治療」、「手術」なのか、いまだにわからない。


放射線科では説明の通り、ベッドの横には体に隣接して超音波を写し出す
モニターのセット、それを見ながらこの「検査」が始まった。

最初は麻酔を3、4か所に打たれ、それが少し痛いだけだった。
メスのような物で穴を開けられても、管を挿入されてもそれ程痛みは感じ
なかった。

ただ管をグリグリ遠慮なさげに挿入されるので、その圧迫感を感じたくらい。

ところがこれが終わりかけた頃から、なんとも表現のしようがない鈍痛が。

そしてすぐにそれが激痛に変わっていく。

痛みには強い、という自負があったが、今まで感じたこともない痛みが右
脇腹全体に広がっていく。

あり得ない痛みだった。

「ぁ、ぁの、メチャクチャいたいんですけど」

やっと声を絞り出し、看護師さんに訴える。

看護師「痛いですか」

私「ちょっと尋常じゃないです」

やっと看護師さんが医師に伝えると、

医師「痛いですか、もう少しなんですけど」

私「・・・」

言葉を発することさえできないでいると、ようやく麻酔を打ち始めた。


治まりゆく痛みにほっとすると同時に、激しい怒りを覚えた。この時ばか
りは。
生身の体に穴を開けておいて、「痛いですか」もなにもない。
どうしようもない痛みなら我慢もするし、それまでも充分我慢してきたつ
もりだ。

それが麻酔で簡単に治まるのであれば、しかも麻酔をする事が治療にさし
て影響がないならば・・・。

(明らかに麻酔の量が足りなかったな、)
心の中で叫ぶかんぞうでした。


こうして脇腹から管が出る生活が始まった。

この後、再手術を経て、11月まで塞がることの無かったこの穴、今も
クッキリと跡があり、いまだに痛いんです。
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歩いたどぉ~

今日は歩いた。
たぶん病気になって以来、一番歩いた。

血液検査と治療の為病院へ行ったので、待ち時間、意味も無くとにかく歩
いた。

移殖仲間のKさんと一緒に構内を歩き、ヤボ用でふらふら歩き、今日から
復活の歯科治療の為、離れた歯科診療棟までなぜか3往復、入院中のSさ
んを見舞い、別れて薬をもらいにまた歩く。

帰りに買い物でスーパーに寄り、余計に歩く。

んで、今歩数計を見ると、この数字。


けっして手で振ってませんから!

ご・ご・誤作動か・・・な。
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今だから知りたいこと

2005年10月4日。

2年前のこの日の事はほとんど記憶にない。

それがいつからなのか、いつまで記憶がなかったのかさえ良く覚えていない。

肝性脳症で自分を見失っていたからか、術後、辛い事を忘れようとする防衛
本能が働いた為なのか・・・、断片的な記憶が残っているだけだ。


どうやって個室からICUに運ばれたのか、そこから手術室に向かうのも、
麻酔からいつ覚めたかも、周りの家族の様子も、思いだせない。


こうしてブログを書きながら、色々振り返って考えてみても、そこにあるの
は自分の中での出来事だけで、妻や子供のこと、親や姉のこと、親類や友人
のこと、みんながどんな思いでいてくれたのか、どれだけ心配してくれてい
たのか、自分にはわからないことだ。


時々妻に、あの時どうだったのって聞いてみても、少しだけ思い出し、

「ああ、そんな事もあったねぇ」って。

そう、どんな状況かなんて、頭に残らない程、目まぐるしい日々だったのだ。



そして今改めて、苦しかったのは自分だけではないと心底思う。

取り合えず落ち着いた現在でも、みな大変だったことなど一言も語ろうとし
ない。
簡単に語ろうとしないことが、逆にどんなに大変だったのかを感じさせる。


その大変さを、周りで何が起こっていたのかを、知りたい気持ちがある。




ちょうど一年前には「夢と希望」と書いた。

改めて「夢と希望」を持てたのは、間違いなく周囲の力。

今ここにこうしていられるのは、けっして自分だけの力ではなく、たくさんの
優しさが結集したものだと思っています。


だからこそ自分の知らない周りの世界を、今だからこそ知りたい。



でも皆、大変だった事は語ってくれない。

それがまた、みんなの最大限の優しさなんでしょうね。
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なんとか運動会に・・・

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<・・・一年前>

・・・2006年 5月19日

3月から続く腹痛がなかなか治まらず、原因もいまいち良くわからないまま
放射線科でのPTBDの予定が決まっていた。

24日のPTBDに備え23日に入院するはずが、この日の定期検診後、緊
急入院する事になった。

腹というか脇腹が、特に夜中強く痛み出し、どうしても家族に迷惑をかけて
しまっていたので、少しほっとした気持ちもあった。


これが移殖後2度目の入院で、腹痛もずっとあったので、もうこの時点では
簡単に回復するものではないと思い始め、言い知れぬ不安と半分あきらめと
変な開き直りと、複雑だった。



入院と同時に絶食を開始、すぐに下痢も始まった。



24日はPTBD、次男の最後の運動会はその3日後、なんとか少しでも
外出して見に行けないものかとほんの少しだけ期待していた。

この時はまだ・・・
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別に・・・

去年もそうだったが、この時期になると色々考えてしまう。

2年前(10月4日の移植手術)の事、それから今に至るまでの事。

あれこて考えても仕方がないけど、このブログ自体それを思い出しながら
書いているわけで、当たり前といえば当たり前か。


先の事だけ考えて生きていければ一番良いのだろうけど。



「あの時どうだった?」

って聞かれて、○○○女王様のように腕を組んで、

「別に・・・」

って答えられる程、ワタクシ腹が座っておりませぬ。

「エピソードは?」

って聞かれて、

「特に無いです」

って答えられませんです。


だって、

たっっっっっっくさん、あり過ぎるんだよ~~~
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