ボレロ聴く 聖七夕tanabata の 鼓動かな
馬糞 Bafun
七月七日はめでたい七の日、七夕の日である。
雨の中を出かけるのは、たとえ近所であっても、億劫なことである。
その雨の中、滅多になくコンサートに出かけた。
スペイン・ビルバオ交響楽団と競演するギタリスト荘村清志の演奏
に一度は触れておきたかった。
見事な演奏だったが、それ以上に、飯塚出身だという若手女流バイ
オリニスト南紫音のツィガーヌやカルメン幻想曲の演奏はつややかで
情熱的だった。
そして何よりも、閑散とした星の流れから次第に大銀河の隆盛をたどる
ようなボレロの演奏に、大満足だった。
なんとめでたい七夕であることか!
近代ヨーロッパに生まれた楽器やクラシック音楽は、日本人にとって
も感銘すべき文化であると認めざるを得ない。
芸術とはリアルである。
どんなに素晴らしいアンプ、スピーカーシステムでも、コンサートホー
ルのリアルには到底及ばない。
生演奏には、奏者と聴衆の緊迫した人間関係が生み出す迫力がある。
こうした演奏の真価とは何か。
個人の楽しみか。
評論の技量を上げることか。
それでは空しい。
享楽であっては、かつてのレムリアの堕落と同じになってしまう。
芸術の意義は、神々への感謝であり、賛美であり、奉納であると思う。
そうであってこそ、芸術としての共感があり、感動がある。
神なき芸術など、ありえないことである!
【ブレーンストーミング地方自治Ⅱ】
東国原宮崎県知事や橋本大阪府知事の言う「地方分権」という言葉
に違和感を覚える。
地方という言葉も気に入らないが、まず「地方分権」ありきという発想
も安易である。
何のための分権なのか、国政の何を分権せよというのか。
「地方分権」が認められる条件として明らかであることは、次の五つ
である。
① 行政縮小、公務員削減の方法であること。
② 警察、軍事、教育行政は中央集権化して充実すること。
③ 国政の行政効率を高める方法であること。
④ 国益に適うこと。
⑤ 経済繁栄の仕組みとして考えること。
結局、「地方分権」といっていることは、課税権、予算権を渡せといっ
ているのである。
守るべきは、土地の文化であり、伝統であり、それを栄えさせたいと
いう希望であろう。
そのための現場主義的な仕組みとして再構成する必要がある。
従来の言葉で語られるべきことではあるまい。
【知事たちよ、独立国家日本の志士であれ!】
今、日本に問われていることは、国防であり、治安であり、教育であ
る。
「地方分権」はその阻害要因でこそあれ、発展要因ではない。
まず、そのことを反省すべきである。
国家が滅びては、「地方分権」でもあるまい。
知事たちが国政に物申すのであるならば、まず一致して、日本の
独立国家としての気概ある政治をこそ望むべきではないのか。
知事は、その土地の大統領として、直接選挙で選ばれた行政の
長である。
独立の気概では、総理大臣に勝るのではないか。
そこにこそ、知事連合への期待があることを忘れて欲しくない。
県知事よ、府知事よ、まず、国家独立の志士であれ、と望む。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi