山萩の 花紫の 冬ごもり
梅士 Baishi
遍路道に山萩の峠道がある。
夏の終わりに、いかにも秋だと感じさせる萩紫の風が吹いていたも
のだった。
二ヶ月前はもう昔の話、時節は晩秋に入った。
山には紅葉が雑じっている。
久しぶりに越えた峠の山萩は、鞘豆になっていた。
そうか、山萩は豆だったのか。
気象台によると、今朝7時の博多の気温は6.6℃まで下がっていた。
わが気象台は8℃だった。
この冷え込みに紅葉は一気に進んでいる。
篠栗の山は今が紅葉の見ごろを迎えている。
風が吹き、あるいは雨が降ると、もう紅葉も終わりだという。
あわただしく、秋も吹きすぎてゆこうとしている。
その篠栗で、山林スポーツなるものを開催するという。
明日である。
いつもは閑散としている林道がにぎわうのであろう。
我輩は、ちと股関節や膝の調子が悪い。
三郡縦走はいつのことになるやら・・・。
かつてのローマ教皇権力のように、文科省権力が幸福の科学大学の
認可をしないという最終決定に至った。
文科省の唯物論科学主義の教義に反するというのが理由である。
下村文部科学大臣の馬脚というべき本心が守護霊インタヴューで暴露
されたことを恨んでいるらしい。
学問の自由と信教の自由をひねり潰そうとする大胆な権力行使である。
小保方晴子さんのSTAP細胞の研究も、マスコミや理研の野依理事長
などの権力によって弾圧されたが、神をもおそれぬ所業とはこの事だろう。
こうした神をも恐れぬ唯物論科学の源流はすでにギリシャ時代にも見ら
れることではあるが、近代に至ってからは、デカルト、フランシス・ベーコン、
カントの理性哲学などにもその傾向が現れている。
その歴史的背景には、近代自然科学や哲学が、カトリック権力による魔
女狩的な弾圧から逃れつつ、ごまかしつつ研究していた事情がある。
学問には自由が必要である。
だから、反教会的な思想をもつことはやむをえない。
しかし、求められることは、教会的・政治的権力からの自由なのであって、
神からの自由なのではないはずである。
教会権力と神とはイコールではない。
ところが、神からの自由に置き換わってしまったところに近代科学の堕落
がある。
人間がこの世界を作ったものでも、偶然にできたはずもないのに、五感に
限定された理性が神に成り代わったのである。
結果、科学の世界を実験的五感の世界に限定し、かつ、善悪の基準を見
失うことになった。
神の思想は合理的法則として存在しているとすれば、科学的探求こそは
修行でもあろう。
それにしても、星の引力とは一体どこから生まれるのだろうか。
磁石の性質を持つというが、鉄だけを引き付けるのではない。
そもそも、最初から引き付ける力(磁場)がなければ星は形成されもしな
いのではないか。
やはり、魂というべきエネルギーが物質化するプロセスが最初になけれ
ば星は生まれないのではないかと思えるのである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党