一服の 鴨とはなりぬ 初夏の池
梅士 Baishi
鴨はどの季節に見ても悠々自適、少しも忙しそうで
はない。
一幅の絵というが、一服の鴨が絵になっている。
さて、今日は五月三日、憲法記念日と言うより、博
多の五月祭というべき「博多どんたく」祭りのひである。
市民や企業がぞろぞろと踊りながら練り歩く。
今日はあいにくの雨と強風で、パレードは中止になっ
たという。
これも、神様の怒りであろう。
運動不足感ほど嫌なことはない。
ここ三日間ほど走っていない。
辛抱たまらず、朝一番の雨の中をスローに走り始
めた。
いつもはどうということもない40分コースだが、久し
ぶりに大腿四頭筋の疲労を感じた。
息も上がり気味で、走りながら大いに反省した。
しかし、苦しい状態を過ぎると、不思議と苦痛なく
淡々と走っているものである。
このままなら、一時間でも走り続けるのではないか。
雨の中を走る感覚も心地よいものだ。
映画『雨に走れば』なんてミュージカルがあってもよ
いのではないか。
今朝は音楽CDの整理をしていて、ビルエバンスト
リオのアルバムを聞いた。
ウッディーベース、クラブピアノ、枯れたドラム・・・、
久しぶり、いい感じだ。
さて、明日は86歳になろうとしている母を連れて、
近場の温泉に出かけることにした。
二泊三日の日程である。
旅行に連れて行けるだけでも幸せなのだろう。
しかし、一緒にウォーキングやジョギングを楽しめ
ないというところが苦痛ではある。
仕方ない、カラオケでも付き合ってやるか・・・。
田中角栄、福田赳夫の霊言は、日本を代表する総
理大臣経験者としての見識と指導力を見せていた。
これに対して、三木武夫の霊言が収録されたらしい
が、チャイナの回し者としか思えない亡国の亡霊のよ
うな雰囲気が漂う。
この違いは一体何なのだろうか。
クリーン三木と歌われて椎名裁定で首相に担ぎ出
されたが、政党政治と議会政治を骨抜きにしただけで
はなかったのか。
選挙活動と資金集めの関係を「悪徳政治」というな
ら、もはや選挙民主主義は成り立たない。
利権政治といえば収賄のイメージがあるが、特定
の利益供与と引き換えにお金を受け取るのであれば
収賄だが、ごひいきにということであれば、選挙民主
主義が予定している範囲のことである。
それを否定してしまったから、政治家が企業家精神
を発揮することができなくなり、世襲議員を定着させ、
政治家を小粒にしてしまったというべきであろう。
国民を代表しているのは、官僚でも、ましてやNHK
や朝日新聞などではない。
政治家が求心力を失い、政党が情報力や教育力を
失ったということは、民主政治が弱体化したことを意味
しているのである。
利権政治はいけないと言いながら、農業団体、医師
会、団体などとの利権政治はもっと性質が悪い。
消費増税キャンペーンを張っていたマスコミが、自
分たちには適用除外で、という密約を結んでいたこと
は問題ではないというのか。
政治は利権がらみを調整してゆくのが日常業務と
してあることを誰が否定できるというのか。
政党による、国民・国家のための政治を議会制民主
主義と言うのである。
しかして、政治家・政党は、神意をおもんぱかって、
神意に適うであろう政治を目指す責任がある。
それが、神聖政党民主主義の政治である。
政教一致とは、神と国民に誓って権力を代行する
政治を意味するというべきである。
そこにいう神とは、一宗教派閥の信奉する神ではな
く、その上にあるであろう統合の神である。
しかし、その神もまた人々の信仰に支えられている。
神の前に、人々は奴隷であるわけではないからで
ある。
しかし、マスコミは神の権威を政治や教育から排除
する地上の権力である。
もはや多くの時間が残されてはいないということか
らすれば、神は有無を言わさずマスコミを叩き潰すで
あろう。
NHK関係者の断罪を避けては通れまい。
「新日本風土記」でさえも、反原発、反防衛の左翼
活動を宣伝する媒体として企画制作されているので
ある。
いかにも、悪質である。
日本独立宣言・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党