紫陽花に 雨音映し 弾きけり
梅士 Baishi
今日は一日雨らしい。
雨の日は読書に限る。
女性とスポーツについて学生に問題提起してみた。
みんな、どう考えてよいかわからなかったと嘆いた。
それもそうだ。
大学人でも説得力のある考察は見当たらない。
杓子定規に男女平等、男女平等と繰り返す。
ジェンダーフリーから結果平等にまで行かねばならぬ
と言う教授さんまでいる始末である。
ジェンダーとは性についての社会的役割の違いないし
差別観をいう。
肉体は性的違いがあるが、社会的には差別はないとい
う主義がジェンダーフリーという。
だから、男も育児や家事を平等にやるべきだという。
出産目的以外は同性愛と変わらないという。
男らしさ、女らしさという考え方は許されない差別だ
として反対するヒステリーをジェンダフリーともいう。
性差別を限りなくないものとし扱う思想であるが、異
常性を感じさせる思想である。
女性とスポーツを考えるためには、三つの場合分けが
分かりやすい。
一つは生命体としての役割や性質の違いである。
女性の魂は子どもを産み育て、補佐する役割として作
られ、美しさ、優しさ、繊細さ、忍耐強さを特色として
いる。
これに対して、男は女子供や国を護り、戦う者として
作られ、強さ、大胆さ、大局的判断力を特色としている。
もう一つはジェンダーという社会的役割評価の違いで
ある。
これは、基本的に生命体の性質によってある程度方向
づけられつつも、社会の状況によって変化しうるもので
ある。
三つ目は、スポーツと言っても、公式のスポーツ競技
と私的なスポーツの楽しみとを区別して論ずるべきこと
である。
一般の問題とされているのは、公式的スポーツ競技へ
の、女性参加の是非という問題であろう。
すると、私的なスポーツにおいては、特別男女を差別
するということではなく、ジェンダー観に多少の影響は
受けつつも、基本的には自由にスポーツに親しんできた
のだといえる。
男の子好みの遊びもあり、女の子好みの遊びもスポー
ツとして楽しまれてきた。
それは、古代ギリシャにおいても大差なかったと考え
られる。
特にダンスは、男女の出会いのスポーツであった。
また、女性でも乗馬を楽しみ、男性的なスポーツを楽
しんだのではないだろうか。
問題は公式の競技会における女性参加の是非である。
アスリートスポーツは基本的には限界への挑戦である
し、歴史的には戦争にまつわる停戦の神事であったり、
鎮魂の神事など、男の世界の問題だった。
女性はそういう世界から守られるべき存在だったから
こそ忌避されたと解釈されるのではないか。
ジェンダー問題としては女性差別というが、争いから
守れる存在だからこその忌避というべきである。
ところが、現代は女性の社会進出を必要とする時代で
あるし、女性が必ずしも、守られるべきではなく、自立
して戦うべき地位を認められるようになってきた。
男女平等の普遍性によるものではなく、女性の地位が
男性化していることによって、アスリートスポーツへの
女性参加が促進されるようになったと考えるべきであろ
う。
女性が男と競い立つ時代が始まっているのである。
それは、女性にとって必ずしも歓迎されることではな
い。
たしかに男と同等に表舞台に立つことは、現代的女性
には当然の希望であろうし、アスリートとして英雄を目
指すのも自然なことかもしれない。
しかし、女性の要保護性を害するようなスポーツは神
の摂理、自然の摂理に抵触する。
アスリートスポーツとは言っても、母性の保護の観点
を見失ってはならないし、男女を対等に競わせる競技は
公平を欠く。
なによりも、男女を対立させるスポーツであるならば、
スポーツは有害であり、公序良俗に反する。
女性が男に劣ることなくできる分野は車の運転のよう
に広がってはいるが、母性は社会的に保護されるべきで
あり、平等という個性の否定思想によって男性化させる
ようなスポーツであってはなるまい。
女性保護の観点からのスポーツルールを工夫する必要
があるというべきである。
唯物論的スポーツとなってはならない。
日本独立宣言・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党