藤の花 鞘を孕みて 納まりぬ
中村 梅士 Baishi
昼下がり、突如緊急地震警報が発報して喚きだした。
空振りが続いていただけに、おお、という感じだった。
テレビをつけて踏ん張ったが、群馬だった。
震度5弱だが、う~ん、遠い。
まったく揺れなかった。
今日は股関節の調子が不具合である。
走りたかったが、控えて、軽い撮影散歩をした。
ネジバナを撮りたかったのだ。
街中では珍しいネジバナを見かけていたからだ。
そのついでに足を伸ばしたのだった。
公園の藤の枝には真新しい豆が下がっていた。
若い妊婦のようでもあった。
藤紫も鞘に納まったのである。
今日は潜在能力が高まって、仕事がトントンと連想的
に進んだ。
気温は30℃に達したが、湿度が低いせいか、清々しい。
良いアイデアも生まれることだろう。
老後の目処は立っていないが、貴方様はお金持ちにな
るほどではないけれども、晩年、小金が入って、お金に
困ることはないですよ、というお告げは今でも希望であ
る。
不安や恐怖は幸福の妨げになるだけである。
ヴェルディ―の『運命の力序曲』を聴いていると、淡々
とした勇気を感じる。
音楽もまた、人生の喜びである。
潜在的凶悪犯や自殺者が蠢いている。
その原因はその人自身にあり、故に結果もその人自信
に現れる。
不幸を望んでいるからであり、結果、この世以上に苦
しくて長い地獄の苦しみが待っている。
最近、北九州でも新幹線に飛び込んで自殺した男が大
迷惑をかけていた。
新幹線では、マグロ拾いも大変だったろう。
マグロ拾いとは、鉄道に飛び込んで死んだ人のばらば
らに飛び散った肉片を拾う仕事である。
異常な犯罪が多いが、責任能力を問題にするべきでは
ない。
目的を持って凶悪犯罪を犯しているのだ。
行動したのはその人自身である。
処罰されるべき能力はそれで十分である。
理性や自由意思を責任前提として重視するべきではな
い。
自殺者も、結局はあの世で厳しく応報刑というべき地
獄の責め苦を受けるのである。
戦乱と飢餓の中世では西方浄土の思想が大衆的救いと
なったが、亡国と飽食の現代では絶望的地獄の布教が大
衆布教となるかもしれない。
自業自得の心得である。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party