北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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石狩弁天社

2022-07-24 16:31:35 | 石狩・空知地方

 

昨日紹介した「弁天歴史公園」の隣にある「石狩弁天社」。

昨日の記事ではさらっと触れただけでしたが・・・、

 

普段は入ることができないのだけど、この日は、特別にガイドさんのご厚意で、中に入ることができました。

写真撮影&ブログ掲載の許可も得たので、いざ中へ。

 

 

ちょっとぶれちゃってますが、中央にある「辯財天」の文字に注目。

「弁天」なので「弁才天」かと思うところですが、こういう表記もあるんですね。

元来は、インド神話に伝わる河川の女神で、音楽、弁舌、財福、智慧の徳があるとされているそうで、「財」の字は、財福に重きを置くものとして、この表記が用いられているそうです。

 

 

 

 

真ん中に弁財天を配置し、七柱の神様が。

ドラマや映画の「主役」「脇役」のように「主神」「脇神」という言い方をするものなんですね。

 

 

 

二つ上の写真の、一組の男女が並んでいるような神様は、「鮫様」として崇められている、「妙亀・法亀大明神」。

「鮫」は、石狩地方のアイヌの人たちの伝承において、「石狩川の主」とされているチョウザメのこととされており、文政元年(1818年)、石狩場所(交易を行う拠点の場所)関係者の夢枕に、巨大な鮫と亀が現れたことで、これを崇めるための祠が建てられ、同8年(1825年)にこの大明神の像が奉納され、現在でも、漁業従事者の信仰の対象となっているのだそうです。

 

 

 

 

中には、幾つかの武将の絵が。

 

 

「加藤清正虎退治の図」。

安政3年(1856年)、越後出身の「井上文昌」の筆によるものだそうです。

越後ということは、当時交易に用いられていた、北前船ででも運ばれてきたものなのかなと思われます。

 

 

 

「武将図」という絵。

解説のとおり、誰がモデルとなっているかは不明とのことだそうです。

 

 

 

「関羽正装図」という絵。

「関羽」って聞いたことがあるなと思ったら、解説のとおり、「三国志」に出てくる神様。

解説のとおり、学問の神として崇められ、かの水戸光圀も信仰していたそうです。

 

 

 

「鰐口」とは、仏堂の正面軒先に吊り下げられる仏具の一つで、上部に上から吊るすための耳状の取手が二つあり、「金の緒」と呼ばれる布施(布で巻いた綱)で鼓面を打ち誓願成就を祈念したそうです。

 

「石狩弁天社」の歴史は、元禄7年(1694年)、松前藩の「石狩川秋味上乗役」という、船乗りの監督を務めていた「山下伴右衛門」という人物が、鮭の豊漁と航海の安全を祈願して、「松前神明社」から神体を勧請したのが始まりとされています。

当初は石狩川の河口近くにあり、かの松浦武四郎も「西蝦夷日誌」という日記に「川端に弁天社あり。社殿美々敷立たり」と記していましたが、明治7年(1874)に現在地に移転しています。

移転前の文化13年(1816年)に、石狩場所の請負人であっ村山家によって社殿が建てられ、それ以降、村山家をはじめとする漁業従事者が信仰の中心となり、現在の社殿も、元々「村山家の内神」と言われていた同家の所有地に建てられているそうです。

昭和42年(1967年)に、石狩市(当時は石狩町)の文化財第一号に指定され、現在も、漁業の神様として広く信仰され続けています。

 

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弁天歴史公園

2022-07-23 15:35:51 | 石狩・空知地方

 

「はまなすの丘公園」に行った帰り、もう一つ近くにある公園に寄ってみました。

「弁天歴史公園」という、名前からして由緒のありそうな公園です。

 

 

正面から入ってすぐの所にあるこちらは、鮭漁で栄えた石狩の歴史を築き上げた先人の苦労を称えた碑で、中央に石狩川をデザインし、鮭と、その下にはハマナスが描かれています。

鮭もさることながら、もしかしてと思って調べてみたら、ハマナスは石狩市の花なんだそうです。

 

 

 

この歌を詠んだ「井上伝蔵」は、日本史の授業で出てきた「秩父事件」(明治17年(1884年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父地方の農民が、政府に対して負債の延納や雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件)の首謀者の一人で、同20年(1887年)、石狩原野の開拓民募集を知って北海道に渡り、現在の石狩市と小樽市との境近くにあった「樽川村」で開墾に従事した人物。

同25年(1892年)には、「伊藤房次郎」のという名で、現在の石狩市親船町に住み、商売人や養子縁組の証人など、町の世話人として活躍し、その傍ら、「柳蛙(りゅうあ)」の俳号で俳句結社「尚古社」に多くの作品を残していたそうです。

 

 

公園の側には、「石狩弁天社」という神社が。

 

 

 

その他にも、町の歴史を語るうえで欠かせない施設があったことが、こうして記されています。

 

 

 

弁天社の狛犬は、海からの強風にさらされて傷みが激しいことから、こうして小屋に入っています。

 

 

 

 

 

「西国三十三箇所霊場」は日本各地に設置されていますが、ここ石狩市の霊場は、「吉田庄助」という人物が、永住の地とした石狩の安泰を願って建てました。

その故郷である新潟の「塔婆山」という山に三十三体観音があったことから、石狩にも三十三箇所霊場ができたという縁だそうで、地区の女性たちの寒修行による浄財と住民の寄付で建てられたそうです。

 

 

 

新潟の「塔婆山」に安置されていたという「天曝観音」。

現在の新潟市北区太郎代という地域の出で、航海中の船が動かなくなり、積んでいた観音像を塔婆山に移し、天曝しにすると、平安の日々が続くようになったという言い伝えがあるそうです。

 

 

園内には、かつての運上屋(かつての蝦夷地における交易の拠点として用いられた場所)を縮小し、現代風に再現した建物が設置されています。

 

 

 

中には、観光案内所と、公園がある「石狩市本町地区」の歴史に関する展示があります。

 

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はまなすの丘公園~2~

2022-07-22 19:30:57 | 石狩・空知地方

 

砂浜から、ニョキっと突き出している物があります。

動物の足のようにも思ってしまいますが、これは、木の枝です。

何故こんな状態になってしまったのでしょう。

 

 

ということで、やってきたのは、昨日から紹介している「はまなすの丘公園」の先端にある、石狩川と日本海が合流する地点です。

遊歩道は整備されていませんが、ここまで歩いていくことは可能なのです。

 

 

 

 

写真の先に、小さなブロック状の設備が見えますが、この辺りが、石狩川の河口です。

道東上川町と上士幌町との境界にある大雪山系石狩岳の西斜面に始まり、国内第三位という長さ268kmという大きな流れの終点がここにありました。

 

 

こちらはもう日本海です。

 

 

河口付近から一枚。

 

 

一昨日の記事で、「伊達邦直主従上陸の地」付近から河口付近を撮った写真を再掲しますが、この写真は、二つ上の写真に写っている、幟のある場所付近から撮ったものです。

一昨日の記事で書いたとおり、河口の見える場所から、実際に河口まで行ってみたということになります。

 

 

河口へ到達したので、再び公園内へ。

 

 

 

公園入口にある「ヴィジターセンター」の寄ってみました。

 

 

 

そう、ここの名物は、このソフトクリームなのです。

 

 

 

これが、ずっと楽しみにしていた「はまなすソフトクリーム」。

クセのない甘酸っぱい味わいで、見た目にも綺麗なこのソフトクリームが、このセンターの不動の人気No.1なのです。

 

 

センター内にはこんな展示が。

 

 

 

昨日の記事で紹介した「石狩灯台」で使用されていたと思われる灯台レンズ。

当時の技術でどの程度の光量だったのかは分かりませんが、海上保安部が長年保管していたということで、道内最古である「石狩灯台」において、ずっと長きにわたって、航海の安全を見守ってきたものが、今こうして、その歴史と功績を後世に伝えているということなのですね。

 

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はまなすの丘公園~1~

2022-07-21 19:53:47 | 石狩・空知地方

 

石狩市の「はまなすの丘公園」に行ってきました。

石狩川と日本海に挟まれた、砂嘴になっている場所の先端付近にあります。

私も22~23年くらいぶりに行きました。

 

 

公園入口に、大きな灯台があります。

 

 

以前来たときにも見ていたと思うのだけど、道内最古の灯台だということは知りませんでした。

平成11年(1999年)に改修を行ったとありますが、前回行ったのはその頃だったと思います。

 

 

「喜びも悲しみも幾歳月」

聞いたことがあった気がするけど、何だったか出てこなかったので調べてみましたが、昭和32年(1957年)に公開された、高峰秀子、佐田啓二主演の、日本各地の灯台を舞台にした映画でした。

この石狩灯台も舞台になっていたため、記念碑が建てられているそうです。

 

 

公園内は、木道が整備されています。

 

 

 

 

 

 

 

「はまなすの丘」という園名だけど、様々な種類の植物が生育しています。

 

 

ラベンダー園とかと違って、一面に咲き誇っているというわけでもないので、場所によっては、むしろ咲いている所を探す方が大変ということもあるのだけど、それだけに、綺麗に咲いている花を見つけると、嬉しいものがあります。

 

 

 

 

 

冒頭書いたとおり、日本海と石狩川に挟まれた砂嘴になっている場所で、歩くことができる場所は、ほぼ石狩川に沿っています。

この先、どこまで続いていることやら・・・。

 

 

※文中敬称略

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伊達邦直主従上陸の地

2022-07-20 20:15:49 | 石狩・空知地方

 

札幌の隣の石狩市。

政令指定都市ではありませんが、平成17年(2005年)に合併した、旧「厚田村」と「浜益村」は、現在も「厚田区」「浜益区」として、合併前の名前を残し続けています。

同じような例は道内でも幾つかあるのだけど、これはいいことだと思います。

平成16年(2004年)に広域合併をした函館市も、かつての「南茅部町」「椴法華村」「恵山町」「戸井町」をそれぞれ「区」としておけば良かったのにと思います。

 

 

そんな「石狩市厚田区」の「聚富」という地名。

ローマ字表記のとおり、「しっぷ」と読みます。

地名の由来は、アイヌ語で「箱の形をしたもの」を意味する「シユ・オプ」に由来するとされています。

周辺に広がる川や山の形状を「箱」に見立てたということのようです。

 

 

厚田区を走る国道231号から少し海の方へ走った所にある小さな碑。

 

 

 

「伊達邦直主従北海道移住の地」の碑。

以前ちょっと予鈴的に書きましたが、札幌の隣の当別町の開拓の礎を築いた「伊達邦直」が、故郷仙台藩から北海道開拓に志願し、開拓使との協議により、荷揚場を使用することが認められたのが、この聚富でした。

結果的に、この聚富も土質が悪くて農地としては適さないことが分かり、明治5年(1872年)、邦直は当別町に入植することとなりましたが、そんな邦直主従の上陸を記念する碑が、現在もこうして聚富に残されています。

(当別町の記事はこちら

 

 

この碑は平成8年(1996年)に建立されたもので、題字は、邦直の子孫で、当時の当別町長であった「伊達寿之」氏によるものです。

 

 

なるべく顔は写りこませたくないので、少々横から。

元々邦直が開拓を命ぜられたのは空知管内の「奈井江町」の辺りで、聚富はその開拓のための前身地に過ぎませんでしたが、この間に八人の新生児が誕生して将来に明るい光をみることができ、また、「本庄睦男」という作家の歴史小説「石狩川」の舞台もここ聚富であったことから、後の当別開拓の方向に定まった歴史的位置を後世に伝えるため、この碑が建立されたと刻まれています。

 

 

その碑から少し海へ向かった所で撮った一枚。

写真の先は、遠く大雪山系に端を発する大河、「石狩川」の河口付近です。

次は、この河口付近を目指してみます。

 

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