中央区にある「山鼻公園」へ行ってきました。
遊具もあり、緑も豊かな、市民の憩いの場です。
そんな公園の一角に並び建つ、三基の石碑。
まずこちらは「山鼻兵村開設碑」。
台座は札幌軟石で作られています。
この辺りは、明治9年(1876年)5月、東北各県の士族約240戸1114人が移住して屯田兵村を開設した場所で、札幌市内と定山渓方面を結ぶ現在の国道230号を中心に、南北と東西の道路が十字に交差する、所謂「碁盤の目」で区画が作られていました。
札幌では現在の西区琴似に次ぐ二番目の屯田兵村で、当時、付近はに原生林が広がっており、藻岩山の端にあることから、「山鼻」と名付けられたとされています。
現在は行政地名としては「山鼻」の地名は残っていませんが、学校や公園、市電の電停名など多くに表記が残っています。
その隣に立つのは、兵村の開設者の氏名を刻んだ碑。
私も琴似に入植した屯田兵の子孫ですが、ここに刻まれている方の子孫の方達は、現在どのくらい地元に残られているのかなと、ちょっと気になりました。
「山鼻記念塔」という碑もあります。
山鼻村の歴史が書き記されています。
琴似や他の地域もそうだけど、厳しい環境の中で開墾を進めて村を作り上げていった先人の苦労を決して忘れてはいけないということを実感させられます。
公園の特徴として、幹の太い大木が多く存在することがあります。
樹齢はどのくらいでしょうかね。間違いなく公園よりは古いだろうから、入植当時からあったものを、公園の整備に当たって移植してきたとも考えられます。
この場所も、このとおり「さっぽろ・ふるさと文化百選」に選定されています。
ここで一番驚いたのが、この、童謡「赤い靴」の歌碑。
函館のベイエリアで見つけたときも驚きでしたが、何故札幌にあるのでしょう?
実はこの石碑には裏面があり、そこに由来が書かれているのですが、撮るのを失念してしまったので、調べた上で書きます。
「赤い靴」の作詞者の野口雨情は札幌で新聞記者をしていたことがあり、この山鼻地区に住んでいたそうですが、その頃、隣に住んでいた同僚の妻から聞いた幼い少女の話をもとに、「赤い靴」が作詞されたとされています。
このことから、山鼻地区の住民、学校関係者などが、歌詞に込められた歴史や雨情の思いを後世に伝えるべく協議を重ねた末、このエピソードを広く後世に伝え、「赤い靴」を歌い継いでいくことで、子供たちの心豊かな成長に繋げていきたいとの思いから、平成27年(2015年)6月に、この碑が建立されたそうです。
(碑の裏面はこちらを)