「はまなすの丘公園」に行った帰り、もう一つ近くにある公園に寄ってみました。
「弁天歴史公園」という、名前からして由緒のありそうな公園です。
正面から入ってすぐの所にあるこちらは、鮭漁で栄えた石狩の歴史を築き上げた先人の苦労を称えた碑で、中央に石狩川をデザインし、鮭と、その下にはハマナスが描かれています。
鮭もさることながら、もしかしてと思って調べてみたら、ハマナスは石狩市の花なんだそうです。
この歌を詠んだ「井上伝蔵」は、日本史の授業で出てきた「秩父事件」(明治17年(1884年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父地方の農民が、政府に対して負債の延納や雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件)の首謀者の一人で、同20年(1887年)、石狩原野の開拓民募集を知って北海道に渡り、現在の石狩市と小樽市との境近くにあった「樽川村」で開墾に従事した人物。
同25年(1892年)には、「伊藤房次郎」のという名で、現在の石狩市親船町に住み、商売人や養子縁組の証人など、町の世話人として活躍し、その傍ら、「柳蛙(りゅうあ)」の俳号で俳句結社「尚古社」に多くの作品を残していたそうです。
公園の側には、「石狩弁天社」という神社が。
その他にも、町の歴史を語るうえで欠かせない施設があったことが、こうして記されています。
弁天社の狛犬は、海からの強風にさらされて傷みが激しいことから、こうして小屋に入っています。
「西国三十三箇所霊場」は日本各地に設置されていますが、ここ石狩市の霊場は、「吉田庄助」という人物が、永住の地とした石狩の安泰を願って建てました。
その故郷である新潟の「塔婆山」という山に三十三体観音があったことから、石狩にも三十三箇所霊場ができたという縁だそうで、地区の女性たちの寒修行による浄財と住民の寄付で建てられたそうです。
新潟の「塔婆山」に安置されていたという「天曝観音」。
現在の新潟市北区太郎代という地域の出で、航海中の船が動かなくなり、積んでいた観音像を塔婆山に移し、天曝しにすると、平安の日々が続くようになったという言い伝えがあるそうです。
園内には、かつての運上屋(かつての蝦夷地における交易の拠点として用いられた場所)を縮小し、現代風に再現した建物が設置されています。
中には、観光案内所と、公園がある「石狩市本町地区」の歴史に関する展示があります。