北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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円山の歴史

2021-05-01 16:37:05 | 札幌

 

先日、「北1条通」の散策記事で紹介した「西20丁目通」との交差点。

それまでずっと直線で来た「北1条通」が、ここでカクッと右斜め方向(方角で言うと西北西)に曲がっていますが、この辺りが、旧「札幌区」と「円山村」との境界であったとされています。

 

 

「西20丁目通」から少し離れたところにある「札幌市円山会館」。

 

 

その敷地内にあるのが、旧「円山村」の開村記念碑です。

現在の「北海道神宮」がある辺りを指す「円山」地域の開拓は、明治3年(1870年)、酒田県(現山形県庄内地方)から、30戸90人の農民が入植したことが始まりで、入植した年の干支から「庚午三の村」と呼ばれました(「一の村」「二の村」もあります)。

同年、開拓使は「農民取扱規則」を制定して農村の自治を定め、農業に励み、怠ける者は処罰する旨を布達したそうです。

翌年、開拓判官岩村通俊が、「庚午三の村」を「円山村」と命名しますが、これは、同年、「札幌神社」後の「北海道神宮」がこの地に鎮座したことから、同じく域内に神社のある京都の「円山」(「八坂神社」や「知恩院」のある場所)に倣い、「円山」と名付けたとされています。

明治39年(1906年)、南の方にあった「山鼻村」と合併して「藻岩村」となりますが、その後、一部が札幌区に編入される流れを経て、昭和13年(1938年)に「円山町」となり、昭和16年(1941年)には「札幌市」に編入されて、現在に至っています。

 

 

会館の敷地内にあるもう一つの碑。

これは、酒田県からの入植の翌年、開拓使の募集移民として入植した、南部藩(現岩手県)出身の「上田善七」という人物の功績を称える「善徳翁碑」というもの。

農民として入植した善七は、開拓使の命により、樺太の警備に赴いたり、開拓使民事局に勤めたりしていましたが、それを辞して農業に専念するようになった後、村農会長として、円山地域を野菜の一大産地に発展させ、他にも、村に設立された「円山教育所」の世話係に任ぜられ、学田の経営で得られた収入で教育所の充実を図ったり、消防組織の組頭や衛生組合の組合長として尽力するなど、地域の発展に多大な功績を残しました。

その功績を称え、昭和3年(1928年)、この碑が建立されています。

 


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