久しぶりの神社探訪。
札幌市郊外にある「厚別神社」へ行ってきました。
参道である階段の途中にある石碑。
「北川七郎右ヱ門」という人物は、明治26年(1893年)5月に石川県から入植し、地域の礎を築いた人物だそうです。
さてさて、冒頭で普通に神社の名前をさらっと書きましたが、札幌の地理に明るい方であれば、この解説板を見て「?」となるかもしれません。
「清田地区」ってありますよね。つまりここは、札幌市清田区なのですが、札幌市には、厚別区という区があります。
清田区にあるのに厚別神社?どういうことなのでしょう?
区の名前は「厚別」と書いて「あつべつ」と読むんだけど、この神社は、「厚別」と書いて「あしりべつ」と読むのです。
どういうことか、簡単に記します。
この地図を少し拡大させてみてください。
神社の西側に「厚別川」という川があると思います。
この川の読み方は「あしりべつがわ」で、この名前は、アイヌ語の「アシリ・ペッ」(新しい川)、「ハシ・ペッ」(かん木の川)に由来するなど様々な説があるのですが、明治期になってから入植してきた開拓移民たちは、先住民族であるアイヌ民族の発音を真似て、「アシㇱへツ」「ハシスベツ」「アシゥシベツ」などと発音するようになり、その読み方に対応する漢字として、様々な字を充てたそうです。
例えば、今も道内の地名としてある「芦別(あしべつ)」とか「鷲別(わしべつ)」という字が充てられる中、その一つに「厚別」というのがあったそうですが、その一方で、幾つかあった発音については、やがて、「あしりべつ」と変化していったようです。
明治27年(1894年)になり、現在のJR函館本線の「厚別」駅が開業しますが、こちらの方は、何故か「あしりべつ」ではなく「あつべつ」と発音したそうで、つまり、それほど離れていないエリア間にあって、字は同じなのに読み方が異なる地域が二つ存在するという、何とも面白い状態が生まれました。
やがて昭和19年(1944年)に、「美しく清らかな水田地帯」として「清田」という地名が誕生するまで、この地域は「厚別(あしりべつ)」と呼ばれていましたが、他方で現在の厚別区に相当する地域では、駅名のまま「厚別(あつべつ)」という地名が定着し、現在に至っています。
「厚別神社」の存する清田区清田、平岡エリアにあっては、郷土の古い呼び名である「あしりべつ」という名前が現在でも大切にされ続けており、例えば、現在の清田区清田小学校、清田中学校は、昭和47年(1972年)まで、「あしりべつ小学校」「あしりべつ中学校」という名前だったほか、現在でも、「あしりべつ」の名前が残された施設が幾つか残されています。
境内を散策してみました。
「忠魂碑」。
同じ名前の碑が他の神社にもあったりしていますが、こちらは、大正7年(1918年)に、戦争の犠牲者を追悼する目的で設置されたものです。
こちらは、昭和50年(1975年)9月12日、「鎮座壱百年祭」が挙行された際に建立された「拓」という記念碑で、花崗岩でできています。
余談ですが、いつも「ブラタモリ」で、岩石の種類を一発で言い当てているタモリさんなら、こういう碑なんかも、一発で岩石の種類を言い当ててしまうのでしょうねきっと。
「厚別神社」の歴史は、明治7年(1874年)、地域に移住した「長岡重治」氏が開墾の片隅に小祠を作り、朝夕拝礼をしたことが起源とされ、明治18年(1885年)には、地域の人々が参拝できる社として、合掌作りの祠が建立されました。
大正6年(1917年)5月に、有志の寄付により新社殿が造営され、本殿が遷座することとなり、現在の社殿は、昭和45年(1970年)9月5日、元の社殿の北西側である現在地に新たに造営されています。
神社にはよくある土俵。
あまりにもよく見かけるので、神社と土俵(相撲)の関係についても調べてみようと思いました。
こういう記念碑もあることですし。興味深い話題が色々発掘できると思います。
行ってきたのはGWの最中で、規模は小さいですが、ここでも花手水が見られました。