龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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代ゼミの東北大入試研究会に行ってきた

2009年12月07日 20時13分48秒 | 教育
今日、代ゼミの東北大入試研究会に行ってきた。

全体会1時間、分科会2時間。分科会は当然国語に参加。

いろいろ印象的なことはあったけれど、
 漢文は用字や句法ばかりではなく、結局のところ構文(主語を画定し、述語をしっかりと押さえる)じゃないか、という指摘は生徒に早速還元しなければ、と。
 ある意味句法や用字は当然として、結局最終的には構文を正確に把握できるか、ってことだよね。

入試問題の古文単語は、すべてを含めても500語レベルで十分。実質的な「単語」としては200を切るぐらいだろう、とも。

また、現代文では、傍線部の引き方や設問の誘導を丁寧に見ていくと、必然的にどんな「採点基準」になるのかも見えてくるのではないか、という話も印象的だった。

難関大受験者ぐらいになると段落を大づかみにするのは割と得意だから、むしろ細かい答案の表現で減点しやすい基準が設定できる「解答」が、出題者の方に想定されているのではないか?という指摘もありましたね。

あとは「想像力」の問題、かな。基本的に受験国語では、「想像力」を駆使して「読む」ことは求められていないのは周知だが、これからそこに踏み込むのか?東北大の小説問題は、所詮踏み込めないだろう、とは国井先生の予想。

実際、センター試験もそうだが、書いてあること、設問の意図の範囲を超えた「想像力」は、「誤読」として扱われかねない(予備校講師の秘術を尽くした解答もまた、減点対象ではないのか、という指摘も興味深かったが)。

実はその前に代ゼミの偉い方の挨拶があって、首都圏のサピックスという中高入試の塾?を吸収合併したとの話があったのも興味深かった。
業界再編と改革は、教育産業も急務なのね。公立高校もぼーっとしてはいられないのだろうなぁ。

しみじみと、大変だ。

2009年12月07日 01時19分19秒 | 社会
 食っていくのが難しい時代だとつくづく思う。

 ただ右肩上がりの幻想を捨てられない、というだけではあるまい。
 地縁的共同体意識の弱まりもよく言われることだが、地縁的つながりだって、いくら高くても地元のお店にいくという話ではなかった。
 「激安」ならば安いお店に行くのは「当たり前」だし、サービスの悪い売り手は退場してもらおう、というのも「当たり前」。

 しかしその「当たり前」だけ声高に言われても、状況に翻弄される現場の者にとってはその指摘は恫喝に似る。

 「仕事を継続的にその地域で行って、しかも食っていく」
 その当たり前の場所を探そうとしても、それが難しいとしたら。

 これでは、小さい生活を守ろうとしてますます縮んでしまい、本来なら人と人とがつながり合うべき中間領域までもが希薄になってしまうのでは、と危惧を抱く。

 もちろん処世術としては、お金をあまり使わないで人生を楽しむ方法が見つかり、その新しいバランスで人とほどよく関わりあう生活が成り立てば、とりあえずはそれでいいともいえる。

 理髪店の親父さんの選択は、既存の設備で人を減らし、自分一人で低価格路線を選ぶことだった。子供さんを別のところで働かせれば、給料払わなくていいし、むしろ家庭としては差し引きプラスになる。
 かつて、自営の商売ならパパママでやっていればなんとかなる、のが一般的だったけれど、そうばかりいっていられないところまで来たのか。
勤め人もまた、「安定と引き替えに、経済的プレーヤーとしてアマチュアのままでいいや」とばかり言ってはいられない。

 ではいったいどんな絵図面を書けばいいのか。問われているのは、お金の流通の中で生きる生活をしている私たち(老若男女を問わず)すべての「経済」的な力(お金の持ち高ではなく)なのかもしれない。

見識とか生き方とか政治に対する判断まで含めて。