『1Q84 BOOK3』村上春樹
を読了。
思ったより、時間がかかった。
一人一人の中に入り込みながら読むには、単線の物語を読むよりはどうしても手間がかかる。
村上春樹の小説は、いろいろ形を変えつつも、ある種「手順を踏む楽しみ」が「文体」として装備されていて、だからいつもこの名前によって書かれた文章は、快楽なのだろうと思う。
何か、としてはバランスを欠いていたり、別の何かとしては足りないと思わずにはいられなかったり、またさらに別の側面からいえば過剰であるとも感じられる。
しかし、どんな種類のものであっても、村上春樹の文章は、手順の強度がある。
とりあえずはそれ以上でもそれ以下でもない。
空虚の深度をもった「穴」を巡る強度。
それはこの作品でも裏切られていない。
社会現象になるほどの読まれ方をする理由は、正直分からないし、私にとってはあんまり興味深い「現象」でもない。
でも、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
を読んでびっくりして震えた時から数十年。
未だに現役でこういう風に「物語」を構築しつづけることに敬意を抱く。
抱きすぎると問題を抱えることにもなるし、遠ざけるばかりでも逆に厄介でもある。
肝心なことは語らない方がいい。読んでおいてやり過ごすのは、なんだかフェアではないような気がするけれど、村上春樹の文章は、肝心なところでフェアではないから(このあたりの説明は簡単にはできませんが)、そういう風にしておいた方がいいのだと思う。
そういう身振りさえ、小説の強度に幾分かは捉えられ、憑依されているのかもしれない、とも思いつつ。
P150過ぎにあった、小説の展開における大きな出来事(これ、ほとんど反則に近いと私は思いますが)以降、いろいろな別のことを読者が考えるスイッチを押されたようで(斉藤美奈子はそれを「神話的」と軽く触れています)、登場人物の「動かない」閉塞感とは裏腹に、内側からさまざまな「神話的」スイッチが入っていく効果は、間違いなくあったように思います。
だって、こんなこと普通書かないって、ねえ。村上春樹のこの文体でさ。
読んだ人の感想を聞きたくなる種類の本ですね、やはりこれも。
結論として私は面白く読みました。
むしろ、小説を書いてみたくなったかなあ。イメージとしてはね。
いや、小説でなくてもいい。なにか「見えないもの」に触れたくなりました。
を読了。
思ったより、時間がかかった。
一人一人の中に入り込みながら読むには、単線の物語を読むよりはどうしても手間がかかる。
村上春樹の小説は、いろいろ形を変えつつも、ある種「手順を踏む楽しみ」が「文体」として装備されていて、だからいつもこの名前によって書かれた文章は、快楽なのだろうと思う。
何か、としてはバランスを欠いていたり、別の何かとしては足りないと思わずにはいられなかったり、またさらに別の側面からいえば過剰であるとも感じられる。
しかし、どんな種類のものであっても、村上春樹の文章は、手順の強度がある。
とりあえずはそれ以上でもそれ以下でもない。
空虚の深度をもった「穴」を巡る強度。
それはこの作品でも裏切られていない。
社会現象になるほどの読まれ方をする理由は、正直分からないし、私にとってはあんまり興味深い「現象」でもない。
でも、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
を読んでびっくりして震えた時から数十年。
未だに現役でこういう風に「物語」を構築しつづけることに敬意を抱く。
抱きすぎると問題を抱えることにもなるし、遠ざけるばかりでも逆に厄介でもある。
肝心なことは語らない方がいい。読んでおいてやり過ごすのは、なんだかフェアではないような気がするけれど、村上春樹の文章は、肝心なところでフェアではないから(このあたりの説明は簡単にはできませんが)、そういう風にしておいた方がいいのだと思う。
そういう身振りさえ、小説の強度に幾分かは捉えられ、憑依されているのかもしれない、とも思いつつ。
P150過ぎにあった、小説の展開における大きな出来事(これ、ほとんど反則に近いと私は思いますが)以降、いろいろな別のことを読者が考えるスイッチを押されたようで(斉藤美奈子はそれを「神話的」と軽く触れています)、登場人物の「動かない」閉塞感とは裏腹に、内側からさまざまな「神話的」スイッチが入っていく効果は、間違いなくあったように思います。
だって、こんなこと普通書かないって、ねえ。村上春樹のこの文体でさ。
読んだ人の感想を聞きたくなる種類の本ですね、やはりこれも。
結論として私は面白く読みました。
むしろ、小説を書いてみたくなったかなあ。イメージとしてはね。
いや、小説でなくてもいい。なにか「見えないもの」に触れたくなりました。