龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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読み終わらない本を読みたい

2010年04月29日 09時12分29秒 | 教育
昔は終わりのこない物語を読みたいと思っていたものだが、
最近、読み終わらない本を読みたい、という思いが強くなった。


似ているけれど、この二つはちょっと違う。

前者は今書かれている物語に向かい、後者は古典に向かう。

物語は一見どこか別世界を描くファンタジーのように見えるが、優れて「今」の産物だ。
他方古典は、何度も読まれることによって繰り返し「今」によみがえるが、何百年も前の産物である。

どちらも「開かれている」けれど、古典は時間的に、物語は空間的に、という指向の違いがある。

空間から時間へ。共時から通時へ。
自分の好みが移ろっているのがわかる。

今、
『正法眼蔵随聞記』(懐奘<えじょう>編)岩波文庫
を、村上春樹と伊坂幸太郎の後に読み始めている。

『正法眼蔵』は読めないが、『~随聞記』は読める。
スピノザの『エチカ』は読めないが書簡集は読める。
カントの『純粋理性批判』は読めないが『啓蒙について』は読める。

そういうことだ。こちらの知的膂力がその程度だ、ということもできる(そういうことだ<笑>)。
しかし別の見方をすれば、

正典は実は「読む」ものではない、といってみることもできるのではないか。

読み得るテキストと読み得ないテキストがある。
読み終わらないテキストと読み終われるテキストがある。

しかしそれは単純な二分法や二項対立ではなさそうな気もする。
正典たちが(たとえば私のような)凡庸な読者や読書を拒んでいるようにみえるのは、単に閉じているか開かれているか、だけではなく、そのテキスト自体がテキスト以外のものに触っているからなのではないか。

書簡集や『~随聞記』もそのテキスト自体で完結はしておらず、別のものに触っている。
だが、それらが触れているのは「別のテキスト」だ。
これなら、テキストを読む方法を知っている凡人にも読める。

1,それ自体で自立した構造を持つテキスト
2,それ自体で自立した構造を持ちつつ、別のテキストの参照可能性によって大きく開かれているテキスト
3,それ自体で完結した構造を持ちつつ、別のテキストを超えた参照不可能な何か、に向かって開かれているテキスト

早わかり的にはそういうことなのではないか。

3を私(わたくし)的に手っ取り早くいってしまうと、「神様」に触っているかどうか、ということになる。
「神様」に深く触れているテキストは、完結した意味のあるメッセージを読み取ろうとしても「読めない」。
あるいは読み切れない。

それは書き手の力不足ではなく、そういう風に書かれているのだろう。

(この項つづく)