龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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いろいろな首相批評 福島から発信するということ(32)

2011年09月02日 20時01分30秒 | 大震災の中で

ようやく菅首相が退陣した。それにしてもまあ驚くほど評判が悪かったようだ。
典型的な評価が日経ビジネスオンラインのこの記事。

「“決断”命! 空回りリーダーが最後までさらした醜態」河合薫

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110830/222351/?P=1

なるほど。
彼はお話にならないほどひどいリーダーらしい。たしかに、身近にこんなリーダーがいたら部下としては困るかもしれない。思いついたことをなんの相談もナシにいきなり記者会見で口走り、部下のハシゴを下ろし続けた挙げ句、一貫性のない場当たり的な人気取りの迷走を続ける……。困ったものである。

まるで「私」がブログで責任もなく思いつきを書いているかのような「軽さ」の匂いが、この首相の言葉には漂っていたことは間違いない。
一国のリーダーとして、大組織の代表としての資質は間違いなく欠いていたのだろう。まあ、私も
「マネージメントする者は余計なことを言わず、言ったら必ずやり遂げる準備と覚悟がなくちゃ」
なんていつも上司像を口にしたりはしている。

でもね。
「正しさ」の理念を部分的にではあれ現実の中でそれを形にしようとした「おじさん」として彼を眺めてみれば、ごく普通の人だったと思う。
そして彼のダメさは、分かりやすいダメさなのだ。本人は「正しい」と思うことことばかりいっていて、しかも結果言うことがコロコロ変わり、頼りにもならず使えない学級委員長みたいな(笑)

私は、「私たちはこの『ダメさ』からはじめる必要がある」と思う。少なくても、菅首相のダメさは「私」の「私たちのダメさ」、なのだ。

そういう意味で丸山茂雄氏が言っていることに納得。

「『頼れる首相』は無い物ねだり 」 (丸山茂雄氏の経営者ブログ ソニー・ミュージック元社長、247ミュージック会長)

http://www.nikkei.com/biz/blog/article/g=96958A9C93819499E0E0E2E3E58DE0E0E2EAE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;dg=1;p=9694E0E2E2E5E0E2E3E3E3E7E2E5

だいたい、今現在システムとして日本は一国のリーダーにふさわしい人物なんて特別なものを選出するようにできていない。(別に首相公選制がいいといっているわけじゃありません。念のため。話はむしろその逆です。)
事実、自民党も民主党もずっとリーダーは利害調整と数合わせで選ばれてきた。
理念なんてものは懐の奥に閉まっておけ、それが政治家だ、というわけだ。

でも、それじゃあ国民に「言葉」が届かない。だからマニフェストって話しになったわけではなかったか?

ところが、結局分かりやすい政策の提示はなし崩しになろうとしている。

菅首相の「私」がかたる理念がいつも「正しい」とは思わない。その語り方が適切だったとも思わない。
だから、福島の住民からみて、浜岡原発の停止は「そりゃ停止したほうがいいよ」と賛同したいと思っても、あまりの「思いつきめいた」言葉の軽さゆえに、賛同しにくくなってしまうという印象があった。

つまるところ、政治家としてはどうかと思う。

でも、これは私たちがここからはじめなければならない、ということなのではないか。

國分功一郎氏が朝日のインタビューに答えていたように、菅首相は少なくても彼の理念をシステムにしようとして法案を通したわけだ。
幼稚で賛同しにくいことはたしかだけれど、菅首相のダメさの中に、相田みつを的「人間観」に基づいて「調整」をする政治家とは別の可能性(の萌芽)を見ておいていいのではないか。

同じ市民活動家出身の政治家辻元清美もその手法の限界を述べている。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110901ddm013010006000c.html

敢えてここで言葉の問題として書いておくけれど、菅首相の思いつきに聞こえてしまいかねない「正しさ」=理念は、明らかにそのままでは「私的な言葉」に過ぎないことも事実だ。

突っ込みどころ満載の「私的な言葉」が持つ「正しさ」を、いかに公共的なるものに鍛え上げていくか、が政治としては重要な「ことば」の問題だと思う。

などと考えていたら、小田嶋隆が政治家のことば(演説)についてもうこんなことを書いていた。

「政治家の演説口調が行き着く果て」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110901/222383/

リーダーの資質とか統治者のやり方とかについては論じる準備もないけれど、「一個人」に還元される政治的能力が国を左右するってのもどうなんだろう、と思う。

「私」という「私的なことば」の存在がそのまま「公共的なるもの」に接続でき、しかもその公共性が個人や利害共同体に還元されてしまわないシステム、社会的な機構が必要だとつくづく思う。

日本の政治は、しばらくは野田さんでまだ旧来の「調整型」を続けるのだろうか。でも、野田さんだってたぶん昔のままの調整ではなく、動いて変化していくと思うなぁ。
そうなってほしい。

いろいろと菅首相批評が目に付いた1日でした。