今日、福島市で計測された放射線量が初めて1μS/hを切ったという報道があった。
本当に良かったと思う。
新たな大規模爆発・放射能の大量飛散量などが起こらず、このまま原発の事故が収束することを祈りたい。
だが同時に、「それだけを切り取って言われてもなあ」という想いも強い。
福島では同時に新たな避難勧奨地点の検討がなされているとも聞く。
もはやこれだけあまねく放射能が広がり、かつホットスポットを含めてまだらに汚染が分布しているとなると、私たちの「生活」にとって「継続的定点観測」の意味は小さくなってきているといわねばなるまい。放出された総放射能量はどこにあっても変わらないのだから。
あとはそれとどう付き合っていくか、が問題だ。
同僚が先日福島の会議で、県立医大の先生とかに、
「ヨーロッパの地域での線量は驚くほど高い。1μS/hを軽く越えるというわけではないが、心配は無用だ」
と聞かされてきたのだそうだ。
ふーん。
どのみち公務員だから県の予算でそんな会議も開催されているのだろうが、ひどい話だ。
何がひどいって、県の行政側自体が国策の原発推進をしてきたわけなのだから、「おまえらの会議でそんな話は聞きたくねえ」ってことである。
発話は基本的に状況定義力=権力が宿る。
(私は、いくら研究はしていてもお医者さんは基本スタンスが技術者であって、科学者じゃないと思っているけれど、それは今は措く)
教員(管理職です)を集めておいて、医者の話を聞かせて、「安全です」言説を県全体に「配信」する……。
4月6日に始業式を強行して「親」を福島に押しとどめたことを、また繰り返そうとしているのだろうか。
教員は、子どもたちの状況を定義するために雇われた「権力行使者」の側面を持つ。
いささか偽悪めくかもしれないが、「子供だまし」が主たる仕事なのだ。
だからこそ、発話主体のスタンスには敏感であるべき。
それなのに福島県の教育が「正しく恐れる」的な話に収斂していくとしたら、正直仲間にはなりたくないな、と「やれやれ」気分になる。
たやすく収斂・収束する発話は、その言説主体のスタンスの偏差が問われる。
ブログで書き散らすのとは訳が違うだろう。
花火ひとつでガタガタいうなよ、と福島在住者としてはは思うけれど、同時に原発推進県だったその県の役人風情が企画した会議で、医者に安全だとか言わせてるなよ、とも思うわけだ。
ま、今までの権力の振るい方、だね。
不安に怯える市民を、子供の教育を通じて啓蒙 馴致していく、みたいな。何時代だよ、と突っ込みたくもなろうというものだ。
改めて、今は言葉が問われている、と思う。
言葉が求められている。
それはおそらく「渇望」に近い。
これから発せられてくるであろう「ことば」に耳を澄ませていこう。
強い拒絶はその内側に、いつだって「動き」の種をはらんでいることぐらい教員なら誰でも知っている。
われわれは誰かの拡声器じゃなくていいはずだ。
たしかに欲望はいつだってまずは他者の欲望なのかもしれない。そういう意味でいえば「安全神話」も「フクシマヲワタ」の風評も、収斂したがる欲望の「鏡」としての役割は果たし続けるのだろう。
でも、じゃあ、私たちは何を反復していくのか?
安全だとか、危険だとか、単純に世界を半分にした言説だけを握りしめていては、ここでは生きられないのじゃないかな。
あくまでも開かれた世界像に向かって、口をつぐむのではなく、語り続けて行くためには、何が必要なのだろう?
何を反復しつつ、そこからどんな世界像を自分たちの手で作り出して生き得るのだろう?
各々の「匙加減」を終着点にするのではなく、出発点として、なおどんな「公共性」が語り得るのだろう。
せめて教員は、そのぐらいは葛藤する義務があるよね。そういう技術のプロ、なんだからさ。
円谷幸吉の遺書(手紙?)のような、身体を伴ったことばを受け止める準備を子供達にさせておくことが必要なのだと思う。
アスリートの動物語録(松岡某や、某イチロー)ではなくてもいいけれど。
「正しさ」を言い募るばかりではなくてね。
臨界面を泳ぎ回ることばの群れを想像しつつ。