『精神看護』という業界専門誌に連載している國分功一郎氏の、
「中動態の世界」が面白い。
第1回は2014年1月号、第2回は2014年3月号に掲載されています。
昔インド=ヨーロッパ言語には中動態という文法的カテゴリーがあったのに、それがなぜ「消えてしまった」のか。能動/受動というカテゴリーは少しも普遍的ではなかったのだ……
ってところから説き起こしていく。
ターゲットの一つは「意志」の見直しだ。
意志は少しも行為の源泉ではないむしろ、行為の準備が整った後で意志は立ち上げられているという最近の脳科学研究を踏まえながら、文法問題から、思考の可能性条件をさぐりつつ、
「人が何ごとかをなす」とはどういうことなのか、を丁寧に解き明かしてくれる。
どこまでも思考の線が伸び、かつ広がり、深まっていく心地よさを、ぜひ味わってみてほしい。
自身でも認めているように、國分氏は大の文法好きだ。
この研究のためにギリシャ語を習い始めた、と去年漏れ聞いた。
この文法問題から世界の可能な「条件」を示していく思考の歩みは、私たちを見慣れた風景から、少しずつ別の「世界」にずらしつつ誘ってくれる。この書き手と同時代を生きることができる悦びを、よろしかったら、ぜひ。
ちなみに、以前その文章を読むことが私にとって無上に楽しかった書き手が、かつての緊張感を失った語りを漏らしているのを読んで、切ない気持ちになった。
浅田彰と蓮實重彦である。
浅田彰はSPA!で福田和也氏と対談していた。
蓮實重彦は、文藝で千葉雅也氏と対談している。
どちらも、かつて(35年前)貪るようにその文章を読んだ書き手だった。
詳しいことはまた後日ここに書くけれど、二人には、昨年11月に表象文化学会で行われた(表象8号に掲載予定?)國分×千葉の対話に比して、全く緊張感もなければ、共に時代を生きる覚悟も感じられない。
まあ、浅田彰も蓮實重彦も、彼ら自身にとってはそれでいいのかもしれない。
ただ、私は、私たちはもう少しこの世界で思考をつづけて行かねばならない。たとえ微力・無力ではあっても、ね。
私は國分功一郎氏のこの「中動態の世界」に、つよい「教育性」を感じている。
それは『ドゥルーズの哲学原理』でも感じたことだし、『スピノザの方法』でも感じたことだ。
「教育性」というのが、雑駁な感想だということは分かっている。
今はメモ書きとして書き留めることしかできないが、ここのところはもう少し自分で思考しながら詰めて行かなければならない。
「教育性」ということばで考えて見たいのはたとえば
精神看護2014年1月号p82の
「本稿はむしろ、様々な分野が既に明らかにしていたことの総合のようなものである。だから、「そんなことは分かっている」と思われる論点も多々あろう。だが、そのような総合が
試みられなかったが故に、ある一つの世界が垣間見られつつも、像を結ばなかったのである。その世界は失われた世界ではないし、未知の世界でもない。ある意味では身近であるが、しかし、手をかざしていつもの日の光を遮るか、別の光を当ててみなければ見えてこない、そんな世界である。」
のような身振りである。
スピノザの研究者である國分先生の姿勢が垣間見える、ともいえるかも知れない。
それを「教育性」というのはおかしな話だろうか。
まあ、その辺りをもう少し、ゆっくり考えていきたいのです。
「中動態の世界」が面白い。
第1回は2014年1月号、第2回は2014年3月号に掲載されています。
昔インド=ヨーロッパ言語には中動態という文法的カテゴリーがあったのに、それがなぜ「消えてしまった」のか。能動/受動というカテゴリーは少しも普遍的ではなかったのだ……
ってところから説き起こしていく。
ターゲットの一つは「意志」の見直しだ。
意志は少しも行為の源泉ではないむしろ、行為の準備が整った後で意志は立ち上げられているという最近の脳科学研究を踏まえながら、文法問題から、思考の可能性条件をさぐりつつ、
「人が何ごとかをなす」とはどういうことなのか、を丁寧に解き明かしてくれる。
どこまでも思考の線が伸び、かつ広がり、深まっていく心地よさを、ぜひ味わってみてほしい。
自身でも認めているように、國分氏は大の文法好きだ。
この研究のためにギリシャ語を習い始めた、と去年漏れ聞いた。
この文法問題から世界の可能な「条件」を示していく思考の歩みは、私たちを見慣れた風景から、少しずつ別の「世界」にずらしつつ誘ってくれる。この書き手と同時代を生きることができる悦びを、よろしかったら、ぜひ。
ちなみに、以前その文章を読むことが私にとって無上に楽しかった書き手が、かつての緊張感を失った語りを漏らしているのを読んで、切ない気持ちになった。
浅田彰と蓮實重彦である。
浅田彰はSPA!で福田和也氏と対談していた。
蓮實重彦は、文藝で千葉雅也氏と対談している。
どちらも、かつて(35年前)貪るようにその文章を読んだ書き手だった。
詳しいことはまた後日ここに書くけれど、二人には、昨年11月に表象文化学会で行われた(表象8号に掲載予定?)國分×千葉の対話に比して、全く緊張感もなければ、共に時代を生きる覚悟も感じられない。
まあ、浅田彰も蓮實重彦も、彼ら自身にとってはそれでいいのかもしれない。
ただ、私は、私たちはもう少しこの世界で思考をつづけて行かねばならない。たとえ微力・無力ではあっても、ね。
私は國分功一郎氏のこの「中動態の世界」に、つよい「教育性」を感じている。
それは『ドゥルーズの哲学原理』でも感じたことだし、『スピノザの方法』でも感じたことだ。
「教育性」というのが、雑駁な感想だということは分かっている。
今はメモ書きとして書き留めることしかできないが、ここのところはもう少し自分で思考しながら詰めて行かなければならない。
「教育性」ということばで考えて見たいのはたとえば
精神看護2014年1月号p82の
「本稿はむしろ、様々な分野が既に明らかにしていたことの総合のようなものである。だから、「そんなことは分かっている」と思われる論点も多々あろう。だが、そのような総合が
試みられなかったが故に、ある一つの世界が垣間見られつつも、像を結ばなかったのである。その世界は失われた世界ではないし、未知の世界でもない。ある意味では身近であるが、しかし、手をかざしていつもの日の光を遮るか、別の光を当ててみなければ見えてこない、そんな世界である。」
のような身振りである。
スピノザの研究者である國分先生の姿勢が垣間見える、ともいえるかも知れない。
それを「教育性」というのはおかしな話だろうか。
まあ、その辺りをもう少し、ゆっくり考えていきたいのです。