龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

「震災を語る本当の言葉を捜して」

2014年04月15日 10時21分04秒 | 大震災の中で
今、福島県を代表する「語り手」の中の2人、開沼博と和合亮一が、この(福島の)震災を語る言葉について考えていくトークが4/14からJFNで始まった。

http://www.jfn.jp/News/view/place_thu/11733

非常に興味深い。

私自身、 誰に頼まれたわけでも期待されたわけでもないのに、大震災と原発事故を契機として福島の中に住む住民として、発信を続けていきたいと思うようになった。

それは震災から一年半ぐらい経ってからのことだ。

震災直後は、語る言葉を持たなかった。
語ることの困難とかいったこじゃれたことをかんがえる隙間もなかった、ということかもしれない。

メモは残そう、と思っていたが、それは単なる忘備録程度の意味だったと思う。

だって、社会的な意味付けを自分の語りに背負わせるなんてことは考えられるはずもないわけで、震災前も震災以後も、私たちは与えられた環境条件を生きていく外はないわけだし。

ただ、それでも考えるようになったことはある。

日常生活をしていくなかで、あたかも放射性物質が私たちの身近な山や林・森などに蓄積されて寄り添いつつ存在しているのと同じように、私たちの日常生活の中に、ある種の「自覚」が生まれてしまっていて、その「自覚」と共に生きていくことになるのだな、という予感というか、「自覚」を「自覚」する、という感覚と共に生きるようになった、ということを考える。

べつにそんなことを考えてみてもしょうがないのかもしれないけれど。

人は、環境に対する根底的な信頼を損なうと、ある種の「裂け目」を感じて生きていくことになる、ととりあえずは言ってもいいのかもしれないが、そういう言い方を前提にしてしまうと、この二人の「語り手」の言葉のような場所にたってしまうような気がして、それはチョット、とも思う。

原発という産業に「依存」しているのは震災以前も以後も変わらない、ともいえる。過疎の問題も、地方の雇用の課題も、事故以前から存在していて、事件以後に「顕在化」しただけ、とも言ってみることだってできる。

個人的な感覚で言うと、声高に言えば顰蹙を買うのを承知でいうなら、矛盾を抱えるというよりもむしろ、世界の前提であった「底」が抜けてしまったような感覚が、この大震災と原発事故には伴っているような気がしてしまうのだ。

「人為」の底が抜けて、その結果として立ち現れる「自然」と向き合わされてしまった感じ、とでもいおうか。それはいわゆる
人間/自然
という対立項としての自然ではなく、人間の営みがある種の限界を見せたその挙句に現れてしまった不可視の自然とでも言うべきもの、だろうか。

まあ、そんなものは「不可視」なのだから、所詮レトリックに過ぎない、とも言える。


とはいえ、仮に「環境とはそこで生活をしていく私たちの「可能性条件」を支えるものである」、とするならば、大震災と原発事故は、私たちが日常生活を営んできたその「可能性条件」を根底から変えてしまった。

「語り得ないもの/語り得ないもの」

という二分法には収まらない、何か得体の知れないものと向き合わされてしまった、あるいはなにかよく分からない領域とすれ違ったような気がする体験、とでも言えばいいだろうか。

ただし、それは単に震災が究極の「非常時」であり「未曽有の巨大な体験だった」ということではない。

私たちの体験の多様さは、常に変わることがない。災害の中であっても日常の中であっても、私たちの体験は常に意識されるものよりずっと多様であり、豊かでもある。

私たちはいつも、その多様な環境の中で小さな眼鏡で世界を覗き、かぎられた範囲の合理性に則って思考し、語りあっている。

得体の知れないものとは、その意識された範囲内で思考するその仕方そのものが傷を負ってしまった感じ、でもあるのかもしれない。

個人的な体験としては、忘れていくこと、語らないことも選択肢のひとつではあるのかもしれない、とも思う。黙っていられるのなら、忘却できるのなら、それが良く生きることにつながるのなら、忘却する力もあながち捨てたものではないとさえ思う。

だが、どこかでその「人為の裂け目から顔を覗かせた自然」と出会ってしまった以上、そのことをなしにして何かを考えることはもう考えられなくなってしまった。

どこかで?

もちろんとりあえずは福島で出会ったにはちがいない。
だが、それは福島という檻に閉じ込めておける種類のものでもないだろうと感じる。

いささか逆説めくけれど、ことばが「開かれてしまった」といってもいいのかもしれない。


この二人が「語りだす」ことはだから、私にとっても非常に興味深いのだ。

一方は詩=文学というところから、他方は社会学というところから出かけてきて、この福島でフィールドワークをしながらことばを捜していってくれるとしたら、おそらく彼らの意図を裏切る形で「それ」と出会った痕跡を共有しできるかもしれない、と思うから。

彼ら自身の専門の仕事の貴重さとは別の可能性が、これからみえてくるかもしない。そういうことを期待している。

まあ、もしかすると、おじいちゃん予備軍で(も)ある私の思考には、宗教的な香りがどうしても漂ってきてしまう、ということだって考えられるんだけどね(笑)