いとうせいこうは『解体屋外伝』しか読んだことがなかったが、この一冊(『解体屋~』)で、私にとってはかけがえのない作家になって久しい。
繰り返し人に貸して勧めては、文庫や中古を買い直してきた。
今回の『想像ラジオ』も楽しく読めたが、衝撃度は『解体屋~』ほどではなかったかな。
先日読んだ柳美里の『JR上野公園口駅』もそうだったが、これだけの災害を描く時には神様や仏様のような視点、いや正確にいえば神様ではないな、「幽霊」が持つような視点はどうしても必要なのかもしれないと感じた。
これからこういう幽霊小説は一つのジャンルというか傾向性を持って語られていんのじゃないかな。
だって、生きている者たちの都合だけで世界がてきているわけではなかろうし、死者を悼むにしても私たちはその個人的なやり方しか手元に残っていないことに気づいてしまい、では、どうするのか、ってことが「課題」になってしまっているわけだから。
もちろんそこでは「想像力」ってなんだ、ってはなしになってくる。
柳美里は上野公園口に、いとうせいこうは被災地の木の上に、「場所」の息遣いをとりあえずの基盤として展開していく。
さてでは想像力を支える基盤=可能性条件としての「場所」とは?
次はそれを考えねばなるまい。
『想像ラジオ』はそこまで
(これはずっと続く、ですね)
繰り返し人に貸して勧めては、文庫や中古を買い直してきた。
今回の『想像ラジオ』も楽しく読めたが、衝撃度は『解体屋~』ほどではなかったかな。
先日読んだ柳美里の『JR上野公園口駅』もそうだったが、これだけの災害を描く時には神様や仏様のような視点、いや正確にいえば神様ではないな、「幽霊」が持つような視点はどうしても必要なのかもしれないと感じた。
これからこういう幽霊小説は一つのジャンルというか傾向性を持って語られていんのじゃないかな。
だって、生きている者たちの都合だけで世界がてきているわけではなかろうし、死者を悼むにしても私たちはその個人的なやり方しか手元に残っていないことに気づいてしまい、では、どうするのか、ってことが「課題」になってしまっているわけだから。
もちろんそこでは「想像力」ってなんだ、ってはなしになってくる。
柳美里は上野公園口に、いとうせいこうは被災地の木の上に、「場所」の息遣いをとりあえずの基盤として展開していく。
さてでは想像力を支える基盤=可能性条件としての「場所」とは?
次はそれを考えねばなるまい。
『想像ラジオ』はそこまで
(これはずっと続く、ですね)